その他、小説でのその「隙間」を有効利用して漫画版で描かれた、加納や平井、島田などのメインメンバーの、リラックスした日常や、昭和への忘れられぬ想い、セックス描写など、ディティールは異なるが、これらもまた、映画版に取り入れられた要素のいくつかであると思われる。
「映画版『戦国自衛隊』田辺節雄原作説」を、さらに補強したのは、小説でも漫画でも映画でも、中盤の鍵となある、小泉越後守を討つ、春日山城を舞台にしたクーデターの展開の描き方である。
小説ではたった1ページで、春日山城天守閣で、敵刃に襲われし景虎と、それをヘリコプターで救わんとする伊庭以下の自衛隊の活躍を書き流したが、その持ちあがりの中での、景虎と小泉越後守のやり取りの流れや、下剋上の流れ、そして、伊庭達との合流のタイミングが「景虎に渡された腕時計」で決まる手はずなどは、ここへきて明確に、映画版が半村良小説だけではなく、田辺節雄漫画版をもその全体構造の枠に組み込んでいると、読み取れる演出であった。
そして、その「田辺版漫画ならではのオリジナル演出」と「映画版ならではの、千葉真一率いるジャパンアクションクラブ(当時・以下JAC)演出」が、共に相互作用を起こして極まったのが、アクションジャンルとしては全編を通じてクライマックスに当たる、自衛隊と武田信玄との、川中島の戦いであろう。
原作小説ではなんと、川中島の戦いの開始を告げる伊庭の「これは勝てる」という台詞から、勝利に終わった「勝つことは勝った」に至るまでは、なんとこれまでのアクションシーン最短の1ページ14行なのである!
確かに小説内でも、「長い丸太を車輪の間に突っ込まれて擱座するトラックが二、三台あった」とだけは記されているが、漫画版と映画版で、特別印象的に描かれた(漫画版ではツボを心得ていて、武田信玄腹心の軍師・山本勘助を配置して)分かりやすくベトナム戦争を再現したかのような、武田軍の数々のゲリラ作戦と、それに伴う近代兵器の惨敗や、時系列的には少し前後するが「鉄の鳥」ことヘリコプターが、武田軍によって墜とされるなど、映画版は漫画版の数々のアイディアを活かしつつ、さらにそれらを奇想天外かつ、実際の生身のアクション俳優の体当たり演技で再現するなど、これぞ「戦国」の「自衛隊」と武田軍の戦いだという部分を、満喫させてくれる出来に仕上がっていた(ちなみに、半村小説版だとヘリコプターは、川中島の戦いの後、まるでなにかのついでのように、たまたま墜落したと、淡泊に書かれただけであった)。
それは、「クライマックス。信玄と謙信の一騎打ちに、伊庭が銃弾で一瞬だけ介入する」や、戦場こそ、後々の近江姉川戦での描写ではあるが、「これまで戦国自衛隊の近代兵器の象徴として君臨してきた戦車(原作ではAPC)が、武器も燃料も失った先で、琵琶湖に向けて自らの車体を沈めていく」という最後の描写も、これも小説にはなく、漫画版と映画版共通の演出であった。
しかし、小説版で描写され、漫画版では省かれた部分でも、映画版に残っているシーンはほんの少しだがある。
戦車に興味を持った景虎の為に、伊庭が島田に命じて、機関銃を対岸の岩場に向けて撃つシーンだ。
この、エピソード単位の錯綜だけを抽出しても、角川春樹氏が『戦国自衛隊』という、空前の未だかつてないビジュアルを、どう映画というメディアに落とし込んでいくかという流れの中で、とるものもとりあえず、使えそうなネタはどっちからでも持ち込んで、放り込んでしまえという気概が伺えて痛快ではあるのだが。
一方、映画版でキャッチフレーズにされた「歴史は俺たちに、何をさせようとしているのか」は、映画の主役・伊庭三尉を演じた千葉真一氏の台詞調で、予告編やテレビCMでは流されたが、実際の映画の中ではそのような台詞はなく(というか、映画版の伊庭三尉は、頭より先に、全てが身体が動いて反応していたので、そんなインテリのような考えを抱くタイプではなかった(笑))、では角川映画お得意の、キャッチフレーズでっち上げかというと、原作小説や漫画版では、昭和の情報に基づき、佐渡に金がみつかったという報告を受けた伊庭が、金塊を見つめて
「時間は俺に何をさせようというのだろう」
原作小説『戦国自衛隊』
と、つぶやくシーンがちゃんとあるのである。