魔球漫画は確かに(特に少年向け週刊連載漫画では)一級の娯楽だ。打つか打たれるかの醍醐味。野球のルールの隅の裏を突いた投げ方、打ち方。一球入魂の最終勝負。どれも次週が早く読みたくてワクワクする要素だ。
けれども僕は少年の頃、既に完結していた『侍ジャイアンツ』単行本を手に取りながら不思議な感覚に襲われたことがある。
番場蛮が生みだした数々の魔球。小柄で非力な球質をカバーすべく生み出した魔球の数々は、漫画内で設置されたウルフ・チーフや眉月光などのライバルの、不断の努力と魔球以上のトンデモな打法で打たれはしたが、それはその時一回きりで、他のバッターにはまだまだ誰にでも通用するじゃないか。いやそのウルフや眉月にだって、その時がたまたまホームランだっただけで、次に同じシチュエーションがあった時には同じ打法でも打ち取れるかもしれない。プロ野球100年の歴史を振り返っても、決め球、魔球と呼ばれる変化球を生み出した投手は実在するが、杉下茂のフォークも山田久志のシンカーも、打たれるときもあったが打ち取るときもあった。なのに梶原漫画の主人公たちは、なぜこうも、たった一回、トンデモな魔球がトンデモな打法で打たれただけで、すぐ敗北宣言をしてしまい、二軍に落ちたり姿を消したりするのか。子どもの頃からそれは不思議だった。
「それ」が一球入魂の梶原スピリッツであり、理屈と現実的な打算を越えた男の生きざまだったと知るのは思春期を迎える手前頃だったのだが、僕は浅はかにも、少年漫画の正統派熱血根性漫画の、梶原対アンチ梶原の実践的ヒューマニズム野球愛の水島という、頭の悪いシンプルな図式で大人になるまでを過ごしてきた。
突然話が変わるが、ぼくは引っ越しが嫌いだ。
幼いころ、母が引っ越しマニアで、東京生まれ育ちの僕が、目黒区、港区、世田谷区内だけで、中学三年になるまで12回も引っ越しをさせられてきた中で、常に引っ越しするたびに、思い出の品や思い入れの深い何かが、親の権限とやらで捨てられたり失ったりさせられていたからである。
それでも。
それでも我が家には。55歳になった今でも、70年代に購入した集英社の『侍ジャイアンツ』単行本16巻が全巻揃えて保管されている。これは同時代の少年画報社『ワイルド7』単行本と並ぶ、僕の人生の友だ。
あの時代、僕は、いや僕らは皆野球少年だった。
巨人黄金のV9時代も過ぎ去り、赤ヘル軍団広島カープの優勝と共に群雄割拠の機運が盛り上がり、子どもたちは小学校のグラウンドに、ミズノ他が展開したプロ野球ユニフォームレプリカや、有名人選手のレプリカグローブを持って週末に集まって日が暮れるまで野球を楽しんだ。
番場の真似をしてはマウンドでぐるぐる回り、王貞治の真似をしては一本足で打席に立った。
少年漫画雑誌では、『野球狂の詩』をはじめとして『アストロ球団』『すすめ!パイレーツ』等、架空のプロ野球チームをメインに据えた漫画が増えていった。
その中で、番場が、岩田鉄五郎が、水原勇気が、70年代のプロ野球を駆け抜けていった記憶は、長嶋の全盛時代をリアルタイムで見なかった僕にとっては、どんな実在選手たちよりも鮮烈だった。