先日、ここで『虎よ、虎よ!』批評をした後、以前から仲が良かった「昭和石森章太郎マニアマダム」と、ばかばかしいメッセージのやり取りになった。

マダム「石森先生昔から海外SF大好き(作家の名前とか捻りなくキャラに使ったり)ですもんね!」

大河「『幻魔大戦』のドク・タイガーの初登場時の研究所の助手の名前「トゥエンティセンチュリー・フォックス」は、どうにかならなかったもんかと、今でも思いますけどね(笑)」

マダム「あれなあww そんなんいっぱいあって、今読むと「いい加減にしろw」って思いますねw」

大河「『サイボーグ009』の00ナンバーサイボーグの名前も、9人分考えるのに、4分以上かけてないですよね、そもそも(笑) 張々湖で30秒ぐらい悩んだ程度で(笑)」

マダム「フランソワーズも実在女優だし、ジェットも有名映画のキャラ名だし、よくこれまで法的に問題にならなかったな?っていう」

大河「ジェロニモにいたってはJrってなんだよ、Jrっていう。Jrってついたのってサンライズ版からでしたっけ? 平成版? 超銀河伝説でケチが付いたのはピュンマの顔だけでしたよねぇ?」

マダム「平成アニメでは『ジェロニモ』がなんかヤバそうと判断したのか、『G・ジュニア』になってて、もう意味わかんなかったですね」

大河「もう、痕跡も残ってない(笑) グローバルな文化的漫画なのか、ただの偏見助長ディフォルメなのか。いや、もっともどっちでもなく、ただの抜け忍アクション漫画だっただけなのにね(あ、これ今度書評で書こう(笑))」

というわけで、思いついたのが今回のコラム。
「そもそも、『サイボーグ009』(以下『009』)という漫画は如何に企画されて、どう変化していったのか」そこへ、「この時代、既に漫画もテレビコンテンツと同じで、プロデューサーならぬ編集者がいて、その編集者の企画や提言があってこそのコンテンツであるため、実は元々は、企画物であった!」という要素を入れることで、今では名作と呼ばれるようになった『009』の定説に対して異論をはさみつつ、真説・珍説をぶち上げてしまおうというこの企画コラムになります!

さてさて、過去に劇場版数回、3度のテレビアニメ化、いくつかの企画物OVA化などを経たことで、日本で知らぬ者はいないとまで思われている、SF漫画『サイボーグ009』。
それは『仮面ライダー』と共に、石森章太郎漫画のトップ代表作と呼ばれ、日本漫画界の金字塔として、今も燦然と輝き続けている!……ということに異論はないのだが、はたして『サイボーグ009』は、そもそもそんな壮大な志と大義で、企画された深遠な作品なのか?というのがまずの疑問。

確かに『009』は、いくつも掲載雑誌を乗り換え、少年漫画雑誌、少女漫画雑誌、SF雑誌、最後には大新聞の正月特別企画を飾るなど、狭量なジャンルに縛られず、サイボーグとSFというテーマをフックに、縦横無尽に漫画界を駆け抜け、戦闘だけではない、日常の心の機微から、ハルマゲドン、最終戦争に至るまでのテーマを、様々な技法と作劇で描き続けられ、単行本累計1000万部を超えた、漫画作品の、ある種の頂点でもある。

しかし、石森章太郎氏は最初から、そんな途方もない企画の元に『009』を連載し始めたのか?
当初から『天使編』等の最終決戦、ハルマゲドン的黙示録的な終焉を目指して、作品作りは始まったのか?

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