私のように、ネットで結構な量の情報発信をやっていて、しかも45万HITブログとか書籍を出したりして目立っていると、どうしても「アンチ」という存在を産み落としてしまいます。

このアンチという存在。
現代ではとかく、スマイリーキクチさんや木村花さんの事件などに通じる「可視化された悪意」ばかりが目立ってしまいますが、人間は決して、ネットだけで生きている存在ではなく、リアルだけで生きれる時代でもありません。
上手く法の網の目をかいくぐって、嫉妬対象、アンチ対象を貶める画策を張り巡らせたりもします。

かくいう私も、既に10年以上、とある偏執狂的アンチに付け狙われまして、ネットやリアルでの人間関係を破壊されてまいりました。中には、そうではなく、私自身の人間的未熟さゆえの、縁の離れもあるとは分かっていますが、SNSで昨日まで仲が良かった人に突然ブロックされ、首をかしげていると、次の日僕への偏執狂的アンチと楽しそうにリプ会話をしていたりするのを見ると、人間どうしても、そこに因果関係を感じてしまうものです。

また、人間、誰もが「自分は主人公である」という主観で人生を過ごしておりますので、明らかに悪役しかとらない行動は、そうそうとらないのですが、逆を言えば法律を学び、逆算し、「そこでのアンチ活動と啓蒙運動」が、決して違法行為にならないように慎重に、ことを進めるアンチが多いのも現実です。
ですから、スマイリーキクチ氏も木村花さんも、相応に知恵の低い連中にたかられた結果の災難であって、それは本当に心情をお察しするのですが、一方で、悪知恵のきくアンチは「ネットの誹謗中傷(名誉棄損・威力業務妨害)ではなく、個人単位でロビー活動(合法)を」というように動いていくのです。
しかし、それもしょせんは悪党の小知恵でしかないので、私もいつまでも手をこまねいているわけではありませんが、私はここ10年程を様々な角度からアンチの妨害を受け続けてきて、気づいたことがいくつかありました。

私のアンチ活動の中心にいる人物は、自らを映画監督と名乗っております。
映画監督と名乗る人物に求められる条件とはなんでしょう?
映画を撮る。もちろんそれは当たり前の大前提です。
ですが、あくまでも「映像作家」「ビジュアルクリエイター」ではなく、「映画監督」を名乗るということは、撮ったものはインディーズ映像でも同人DVDでもなく「映画」であることが必然ですから、この場合「映画」とは、業界内部的には「映画館で上映された映像作品」ということになります。
ここは、私のアンチ話以外でも大事な部分でして、カルチャーの世界では、権威付けやソフト化の際の利権の幅などで「劇場公開作品(映画)」なのか「劇場未公開作品」なのかで、価値は全く異なってきてしまうのです。
そのこと自体が是か非かではなく、文化とは「そういうもの」なのです。
さて、その、僕へのアンチは「自称映画監督」です。SNSでの発信でも「僕たちの業界は」とか「僕たち撮る側は」とか「僕らは映画を撮る立場なので」とか、やたらとそういった部分を強調してきます。

さて、そこで大事な事実確認なのですが、その上でその自称映画監督は、僕が知る限りにおいては、商業用の、映画館で上映された映画を監督したことは、いっさいございません。
あくまでも、私の知る限りとその人のサイトによれば、もう10年以上前に撮った、コスプレイヤーのイメージDVDを、コミケや通販で売ってるのが、せいぜいだといったところでしょうか。それで映画監督が名乗れるのであれば、私も学生時代に何本か自主映画は撮ったことがあるので、私も映画監督を名乗ってもよくなってしまいます(もちろん、そんな恥知らずな真似はしません)。


その上で、やたら映画やアニメの業界問題に詳しい自分を演出し「おっと、ここでは言えないけれど僕は知っている」とか「あぁあの件か、おっとこれ以上は言えないなあ」等と、自分が如何に業界内部の事情通かをアピールするのです。実際、押しかけのような形で、メジャーな映画監督やアニメ監督には名前が知られているらしく、それを必死に「自分がギョーカイ人なのだ」アピと、「市川大河つぶしのための権威付け」に使いまわすのです。
そうすれば、その人をよく知らない、少し付き合いがあってもSNS上でしか知らない人であれば「この人はすごい人なんだ」「この人は映画監督なんだ」と“誤解”します。その“誤解”を誘発するために、その人は懸命に、映画にただエキストラで集められただけの出来事を「〇〇監督と現場でご一緒した」とか「『〇〇』という映画に参加した」とか言いまくるのです(冷静に考えれば、一つの映画に監督は一人なのですから、監督同士が仕事で現場を「ご一緒」したり「参加」すること自体が矛盾に満ちているのですけれどもね)。

また、その自称映画監督とコンビを組んで、僕へのネガキャンをしている人物は、自称歴史家です。「いつか昭和のサブカルチャー歴史をまとめたサイトを立ち上げたい」と大きな夢を語りながら、10年前からその気配は一切見えません。その歴史観が正しいかどうかに興味を抱いて覗いてみれば、SNSでは根拠のない(僕相手ではなく、テレビ史に残る偉人に関する)デマを、実名を出しながら揚々と語っています。それはもう、歴史研究サイトなんてものが立ち上がらないのも、一目瞭然と思える始末です。
彼が歴史家を名乗りながら、公言したサイトも作る様子もないまま、SNSでのご高説自慢に興じている合間に、私はこうして、支援してくださる人脈に恵まれて、公式サイトを立ち上げているわけです。
その人は本当に、歴史家なのでしょうか?

そう思えば、様々な「ばかばかしい出来事」が脳裏を駆け巡ります。
私が若い頃、まだライターデビューしていなかった頃に、ライターになろうと懸命の僕を嘲笑したり、不可能と決めつけて諫めたりした人達がいました。
先述した、その「自称映画監督」は、僕のそうした、古い人脈や数十年過去の友人にまで遡り、僕への誹謗中傷や、ネガキャン活動用の逸話をでっち上げる証言を集めていたことが、もう僕の耳にも届いているのですが。

その中には、30年以上前、華々しく少女漫画の新人賞をとってデビューした女性漫画家の元友人や、テレビのアニメ(ただし1作品だけ)で重要なレギュラーを演じた、女性声優の元友人や、時代の隆盛をキャッチして、アダルトゲームのノベライズから始まって、次々ヒット作を輩出していたラノベ作家の元友人等が群雄割拠して、私は全否定されていたのでした。
ですがその方々の成しえた仕事、事実は事実ですから、彼ら、彼女らに、「大河、お前は才能がないから諦めろ」と言われれば、言い返す言葉も理屈もありません。むしろ、近年、大器晩成というには遅咲き過ぎた私の今を、喜び祝って欲しいと思ったほどです。
ですが、どうやら、自称映画監督が吹聴する「市川大河の悪行」というデマの中には、そんな人達がでっち上げた以外に考えられない、嘘八百も多いのです。
それを知った私は、せめてもの抗議をしようと、連絡が取れないかと動いてみたこともありました。

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