サブマリンのなりたちと、メカデザインというビジネス

――次はまさに、そこをお伺いしたいと思います。Wikiが間違っていたとして、樋口さんはどういった経緯で、サブマリンに辿り着かれたのでしょうか。

樋口 まず1970年に上京してきて絵を描く職業をあちこち探しながら1974年にデザインメイトに入るんですよ。そこで僕はビッグレーシングのパッケージイラストを描いたり、ミクロマンリカちゃんなどの商品企画(スケッチ)やパッケージをデザインしていたりしていました。その後サブマリンが出来たんで、私はサブマリンの社員になりました。そこからアニメの方にどんどん行ったんですね。タカラが東映と連動した『マグネロボ ガ・キーン』(1976年)等の(商品)パッケージもデザインしていましたから、(タカラさんとは常に)近い処にいたんですね。それである時、山浦さんからだと思うんだけど、「クローバー『無敵超人ザンボット3』(1977年)や『無敵鋼人ダイターン3』(1978年)等のサンライズアニメのメインスポンサー玩具会社)のパッケージがよくないんで、サブマリンで出来ないか」という話を持ってきてくれたんですよ。その流れで仕事を請け負っていたら「だったらアニメの(メカ)設定も出来るんじゃない?」と言われて、僕の上司になる菅原氏が『未来ロボ ダルタニアス』(1979年 制作は東映テレビ事業部だが、実務は日本サンライズ)をやるもんだから、アニメもやっていけるんじゃないかという流れになったんです。僕は多分『ダルタニアス』ではオープニングとか、そういう所にかかわったと思うんですよ。その後、僕が『タンサー5』を任されたんですが、同時期に石森(章太郎)さんの『サイボーグ009』(1979年 制作は東映テレビ事業部だが、実務は日本サンライズ)がありました。『009』は、大西(博)君に全部任せたんです。ドルフィン号とかですね。その過程でサブマリンという形がなんとなく出来ていったんです。僕はそれまで自分の名前を(完成作品のクレジット等で)あまり出さなかったんですよ。その当時デザイン業界ではそれが普通だったのです。しかし『イデオン』の時に映画化になって、山浦さんから「責任上、名前を出してくれ」と言われました(笑) それで了承して、初めて自分の名前を出したんです。

『サイボーグ009』1979年版 ドルフィンⅡ世号 玩具

次回は「「『イデオンという伝説』をデザインした男」樋口雄一氏 インタビュー 後編」

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