そんな日々の中で、ある日平増氏から、また電話で突然提案を受ける。
「よし、大河、次のオリジナルビデオ『〇〇〇』からは、制作進行をやってみようか」
もはや、断れるだけのパワーも気力もない。ここでもまた口車に乗せられて、僕は人生で初のスーツを新調してしまった。制作進行は、スーツを着て、ロケ地の事前交渉や、各事務所間のスケジュール調整。各セクトの調整と事務管理をするのが基本的な仕事だ。つまり「現場がストレスなく速やかに、進むための環境作り、これが制作部なのだ。
これを請けることで、僕は二足の草鞋を履くことになり、日々の忙殺体制にますます拍車をかけたので、多忙はピークを迎えたが、平増氏は、そこはそれ、鬼ではないしある種の師弟関係にもなってきているので、粋な差配もみせてくれた。
僕が真夏に仕事で忙殺してる事を察してくれて、僕が沖縄好きなのを知っていたので、全編沖縄ロケの映画で、かなり余裕のあるスケジュールで、前乗り交渉人として沖縄へ送り込んでくれて、スケジュールの半分以上をリゾートで過ごせるようにしてくれたり、その映画のプロデューサーでもあるO村氏の手持ちのプロダクションで、一週間ほど全員が総出でオフィスをあけるということで、電話番だけしてるだけで、そこそこのギャラをくれる留守番仕事で、のんびり過ごせる仕事も与えてくれた。
「そういう意味」で、僕はやはりなんだかんだ言っても、この国のバブル期の恩恵も地獄も、共に受けたのだなという感慨は今もある。
だから、ビデオデッキは当然持っていたが、いくら録画しても、肝心の「観る時間」が作れないので、90年代に入る頃からは、僕はアニメも特撮も興味を失っていた。人生二度目の「子ども向けからの卒業」だった。
その中で、恋愛もあった。縁もあった。様々な恩を受け、優しさも受けた。
ただ、具体的に様々な作品の名前をここで書けないのは、助監督経験が詐称なのではなく、あの業界の去り方に悔いと申し訳のなさが残っているからである。
多分(去年、ちょっとあちこちに営業をかけてみたが実現しなかったが)助監督悲喜こもごも話が、書籍化できればその時は、事前に仁義行脚でもして、許可をもらっていろいろ実名で書いてみたいと思っている。
その「業界の去り方」なのだが。
「その日」は、確かに数日前からの体調不良でめまいがとまらなかった日だった。
しかし、助監督としてはセカンドに昇進して二か月目なので、今が踏ん張り時だと思い、体調不良もそのプレッシャーからだろうと、がんばっていた。
しかし、空調がしっかりしているロケセットなのに、汗が滝のように流れ出てきた。
「大河、大丈夫か?」
S社撮影所でいつも遊んでいる衣装の鮎川が、さすがに僕に声をかけてきた。
だいじょうぶ。そう返そうとして、僕はそこで意識を失った。
その日を最後に、僕は映画の現場の最前線からは、永遠に遠ざかることになった。