そしてライトノベルへ

ここまで書いてきた「SF作家 一人一ジャンルの蜜月性」は、80年代も中盤に至るプロセスにおいて、それでもまだ「80年代的少女漫画的感性を、優れた文章能力と語彙で、『少女独白文学』とでもいう形で、SFに定着させた功労者」としての『あたしの中の…』『星へ行く船』新井素子女史。あえて『勇者ライディーン』(1975年)や『機動戦士ガンダム』(1979年)といった、ロボットアニメのキャラクターデザイナーであった、アニメ界の安彦良和氏を挿絵画家に迎え、徹底した「アニメ的な、設定とアクションとエンターテイメント」に己の作家性を絞り込んだ、高千穂遥氏の『クラッシャージョウ』シリーズ『ダーティ・ペア』シリーズ。まだ、誰も本格的にはチャレンジしていなかった「西欧中世的な世界観を舞台にした、少女漫画界24年組的描写と耽美性で、正面からヒロイックファンタジーを描く」を『グイン・サーガ』シリーズで金字塔を打ち立てた栗本薫女史(そういえば、栗本女史も推理分断とSF系を自在に往復していた)等の登場においては、その法則性は高クオリティでギリギリ保たれてはいた時代ではあった。
(そして三人三様に、竹宮恵子、安彦良和、加藤直之という、優れたイラストレイターと組んだ仕事で名を上げた点でも、本項での論旨にも通じる)

これらの作品群は、コバルト文庫やソノラマ文庫、ハヤカワ文庫で展開されたが、どれも現代におけるライトノベル文化の雛形であろう。
ライトノベル文化をして「日本SF文壇の一番の魅力であった『一人一ジャンル主義の崩壊の先の、ナンデモアリの混沌のもたらす落胆』」を感じるか「昔はジャンル分けしなければ、うっかり踏み入ることで全く理解も共感も得られなかった、ハードSF要素や時間SF要素が、誰にでも気軽に、しかもメイン要素ではなくても受け入れられるほどに、土壌が育ったか」と感慨深くなるかは、それこそ人それぞれだとは思うが。

日本SF文壇の分岐点は、実は巽孝之氏などがアジる『ニューロマンサー』以前・以降のサイバーパンク含む、アカデミックなファンダムや批評の推移によるものではなく、それこそそれまでのSF作家陣との比較で言えば、まだまだ一騎当千の実力と才能を兼ねていた、新井・高千穂・栗本三氏による「80年代サブカル的なメインガジェット」をして「これなら僕にもSF作家になれる」と、錯覚させてしまったところに、ターニングポイントがあったかのように、筆者は思うのである。

正直、筆者自身は「主人公がハイティーンの少女で、一人称口調で、一見軽い文体で、奇想天外な物語が展開する作家」は、新井素子がオンリーワンであったと思うし、あって欲しいとも思ったし、似て異なる「少女漫画の手法の、小説文学への置換」は、栗本氏でしかできない技のままであって欲しいと思ったし、高千穂氏の『クラッシャージョウ』『ダーティ・ペア』シリーズの大ヒットに関しては(これが当時の一番の危惧であり、そして的中するのだが)、当時空前の思春期向けアニメブームの中で、既存のアニメのノベライズ展開等であればまだしも、あたかもSFアニメを観る感覚を、文章と挿絵という表現へと、とても安易なコンテンツプロダクツとして取り込んでしまい、つまり「アニメ一本を制作するよりも、遥かに低いコストとリスク」で作られた「文庫本というメディア」で「アニメを楽しむ気分」を、あえて文学という入れ物を借りて、やってみせてしまおうという、これはSF文壇にとっても、出版界にとっても、せっかく80年代までの、作家単位との連携で、日本SF作家クラブが築き上げてきた「一般社会への、SFの啓蒙」という努力も、全てを「目先の銭という、資本主義の大義名分」を金科玉条にして、失わせてしまうと思ったし、実際にその末路をたどったのが、現代のライトノベル文化の隆盛と、当たり前に起きつつある、失速と凋落の原因であると思っている。

『小松左京のSFセミナー』が遺したもの

本書は冒頭で記したとおり、1982年というタイミングで、小松左京氏が(スタッフ制ではあるが)個人として記した「現段階での、SFという概念の全て」を、記し切った一冊である。
当然、それから30年以上経った現代では、SFも文学も、社会もその概念や体制を変え、一概に現代に通じる説文にはなり得ないかもしれないが、それでも、SF界随一、いや日本文壇会随一の知識と博学さと、データストレージと分析力を兼ね備えていた小松左京氏による一冊なのである。
そこでの「SFの歴史」を読み解いても、それこそIsaac Asimov押川春浪、果ては『竹取物語』『雨月物語』まで、SF的概念の始祖として語られている。これらへの「SF的敬意」は、決して現代にまで30年間の時代が進んだとはいえ、決して色あせる理由も必要もない、コアのようなものであることに変わりはない。
そういった諸々の意味としても、現代のライトノベル的、SFクラブ内紛をネタにした、ワイドショー感覚的でのみの、興味や理解だけではなく「そもそも、人にとってSFとはなんなのか」を、読み解き、飲み込む最高のテクストとして、本書は存在していると言ってよい。

「実は、ばかばかしい子ども向けホラ話に見受けられがちなSFこそが、どんな高尚な純文学よりも、知的で高度な文学表現なのである」

『小松左京のSFセミナー』

この言葉は、筆者も思春期まで等に、何度となく今回名前を上げさせていただいた「SFの先駆者」達から教えられた名言であるが、その名言を、現代のファンは、被差別者・マイノリティであるオタクの自我の暴走による、自分達の趣味性の狭量さへの、排外的な強弁的自己防衛のために乱用してはいないか?
せめて、小松氏が遺したこの一冊を改めて読んでみて、そこで再考するのは、決して読書人にとっては、悪くない時間であるはずだと、筆者は思うのである。

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