安藤 あのね、僕はむしろ(円谷)粲だと思うんですよ。『ファイヤーマン』も『トリプルファイター』(1972年・円谷プロ)も(プロデューサーは)粲なんだよ。それで粲ってのは僕の助監督をやっていたから。それで『トリプルファイター』やる時も、僕はその時既に『快傑ライオン丸』(1972年・ピープロ)やってたのね。そこに(粲氏が)来てね。『新しい番組があるから、安ちゃんどうしてもやってよ』と。僕はね、粲が僕を円谷プロから離さなかったんじゃないかなって思うんですよ。それにね、橋本さんが入ってきたからこそ、僕は(セブンで)監督が出来たっていうのもあるんですよ。それで『怪奇大作戦』(1968年)の時に、僕にまたチーフ(助監督)に戻れって話があって、僕はもう、それは嫌だって頑として言ったんだけど。それがね、言えない会社だったんだよ円谷プロっていう会社は。いや、僕は言えたんだけど、それは僕が外部から入った人間だったからであって、円谷生え抜きの人間は、とてもじゃないけどそれを言える環境じゃなかったのね。なんでも『ハイハイ』って言う、つまり○○さん、△△さん、□□さん……。その人達はおそらく、会社からそういう(助監督の)話があれば『ハイハイ』って言ってやった人達なんですよ。だけど僕は頑として受け入れなかった。
――メガホンを一度執ったプライドというものが、当然ありますよね。
安藤 それで結局、僕は自宅待機になったんですよ、四ヶ月くらい。だけど僕はやっぱり信念があったし。それに作品っていうのは、出来上がりで評価されればいいんで、それが駄目だったから、数字(視聴率)が悪かったからっていう理由でお前助監督に戻れと、そういう理由でなら(助監督に戻れという命令も)筋が分かる。だけどそうじゃなくって、(社内政治的な理由で)戻れって言われても駄目だと。で、円谷英二と直談判したんだけど、やっぱり円谷英二さんっていうのは、プロの中では神様だったわけじゃないですか?その『神様』に対して僕は直談判した。けども、それはあくまで正論であって、でもその正論をちゃんと神様に言える人が、円谷の中になんかいなかったっていうのはあるんだよね。
――そのお話は50年近く前のことですけれども、円谷プロにはやはり当事から、同属経営ならではの弊害というか、内輪優先の体制というものはあったんでしょうか。
安藤 だから、○○監督なんて失礼だけどさ、俺が毎朝シナリオ持っていって直してやって、こうやった方がいいぞとか、お世話してあげて……。皆そうだよ、△△さんなんかはさぁ、カットバックしか撮れねぇし(爆笑)
――すいません、むせました(笑)
安藤 そんなさぁ(笑) 助監督としてついてて、ちゃんちゃら可笑しくてさ(笑)