前回は「市川大河仕事歴 映像文章編Part4『ア・ホーマンス』『隔月刊 宇宙船』」

さて、この連載のPart3で書いたように、僕は、映画、ドラマの撮影スタジオを走り回る仕事から、一転して部屋の机の前に座り、パソコンのキーボードを叩く仕事へとスライドした。
他の項目でも書いたかもしれないが、転身当時は、僕の周りの華やかな「巨大出版社の看板漫画雑誌の新人賞でデビューした漫画家」「新進気鋭のライトノベル作家」達から、蔑まれ、馬鹿にされ、お前にその才能はないと言い切られ、悔しさも痛感していた。
僕は今に至るも、この業界で何か賞を得たり称えられた経験がないので、地道に営業で走り、師匠のカバンを持って、行く先々に金魚の糞のように付きまとったり、それでもらえるおこぼれを文字にしていくしかなかった。

それでもまぁ、ある種の戦友のような感覚で「売れないライター仲間」というのは出来上がっていく。
「市川大河はコネでしか仕事がない」
以前「市川大河のweb多事争論『夢のゆくえ』」で紹介した、僕への中傷を業界内にばらまくことを人生のメインミッションにしている人の定型文フレーズだが、実際の僕やライター本業の人間に言わせると「むしろ、それ以外で、どうやって仕事をとってくるんだ」としか言えないのがこの業界である。
そりゃ、直木賞でデビューしたりベストセラー作品があれば違うのだろうが、殆どのライターは、お互い声をかけあって仕事を成立させてる。
特に、時代はまだまだネットが存在せず、まだサブカルが雑誌媒体全盛だった時代。
ちょっとマニアックな雑誌別冊のコードのムックの企画が立てられれば、まず軸として呼ばれたライターが、片っ端から周りの「今回の企画に向いてそうなライター」に声をかける。
お声がかかって手を挙げれば、編集と顔合わせをして、条件が合致すれば契約成立。後は締め切りまでに原稿をあげる。
そんな時代だった。
そこで任される題材は、そりゃもう選べる立場なんかではなく、「伝説のコメディアンの逸話集」「江戸時代の男色文化」から「バイク選びの上野歩き」みたいな企画まで。名もない連載も含め、くるものは拒まずでなんでも食いついた。
食いついたからには、結果を出さなきゃ「次」がない、アメリカ縦断ウルトラクイズみたいな職業、それがライター。

そんな中、当時時代はファミコンブーム直後期、バブル崩壊直前期ということもあって、家庭用ゲーム機、いわゆるコンシューマーというカテゴリが出てきて、『ファミ通』などの雑誌が軒並み部数を伸ばし、ゲーム雑誌も増え、結果「ゲームライター」という職種が登場してきた。
僕も、20歳の頃初期のファミコンの頃からゲーマーではあったのでと、その当時の師匠がゲーム関係でもシナリオでゲーム開発に絡んでいたりしたので、結果「そっち方面」での知り合いも多くなって、ちょくちょくゲームレビューの仕事はしていた。
仕事と言えば、ゲーム雑誌の編集を何社か紹介してもらい、発売前のROM(ゲームのテストロットみたいなもの)を渡されて、それを何十時間もプレイして、発売前に、攻略テクニックをまとめたり、ゲームシステムの解説をしたり、ゲームバランスの評価をしたりする。それがまぁ、普通のゲームライターの仕事だった。

「おい。ちょっと! 誰かゲームライターいねぇか?」
旧友で同業になったライターが、いっせいに周りに声をかけてきた。
僕はとりあえず食いついた。
媒体は、当時宝島社のラインナップで『別冊宝島』、その冠そのものには、当時は僕は常連で、何冊か全く違ったジャンルで書かせてもらっていた。
担当編集長は、まだ当時若くて編集長新人だったM橋氏。
執筆陣は、十把一絡げの泡沫ライター(自分含む)以外は、しりあがり寿氏や知る人ぞ知るカリスマゲーマー・大木凡人氏の他、松尾スズキ氏や我孫子武丸氏等、そうそうたるメンバー。そんな壮絶なメンバー含むライター群を集めて、原稿が構成された『このゲームがすごい!プレイステーション編』で、僕は「あえて狙って」PSがメインルートではないシリーズ作品『スーパーロボット大戦』(略してスパロボ)の『新』をチョイス。とりあえず「原作アニメの声優が総登場してるから凄いんだ」という、冷静に考えたら「まったくゲームは褒めてない一押しレビュー」を書くという快挙を成し遂げた。しかも別冊宝島で(笑)

当時参加した『別冊宝島 このゲームがすごい!プレイステーション編』

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