イルパラッツォと呼ばれし肉体に憑依していた登場人物が複数いたとして、ではどこのシーンでは誰であったのか。作者は“そこ”にもちゃんと描き分けを導入しているのではあるが、その描き分けもそのトリックを思いついてから取り入れたに過ぎず、初期から徹底して伏線が貼られていたわけではない。
“核”と呼ばれし作品上最重要アイテムの存在も、どこの時点でどうその存在位置が分岐していたのかも、何度読み返してみてもおぼろげすぎる。
それに“そもそも論”で言ってしまえば、そもそも初動からアニメ化辺りでこの漫画のファンになった固定客層は、最終的に“こういう展開”になる流れを、期待していたのか?という素朴な疑問。
まるで「ファミレスで一番安いワインを注文したら、ソムリエが現れてしまった」レベルで、読んでいる側がぎこちなくなってしまう大風呂敷を畳む“だけ”を、手段と目的を入れ違えてしまったラスト単行本2冊分の展開。
これらは決して褒められたレベルには達していないが、むしろ最低限、この程度の覚悟と技量ではやってもらわなければ、読者を引っ張りまわし過ぎるだけで無責任でしょう?とでもいうしかないような、安易な「大長編エンドレス大河ドラマ的、SFファンタジー」の漫画やラノベが、巷では多すぎるのも事実であり、その中には「読者の興味と話題を誘う事だけを目的にして、風呂敷を広げるだけ広げておいて、無数にも見える伏線を散りばめておきながらも、作品人気のピークが過ぎ去ってしまったからか、コンテンツそのものが未完放置されたままの作品」が多すぎるのである。
あえて悪しき前例扱いをしてあげつらえてしまえば、それこそ石森章太郎氏の『サイボーグ009』の『天使編』や、同じく石森氏と、SF作家の平井和正氏が組んだ『幻魔大戦』辺りがそのルーツなのかもしれないが、現代のオタク向け漫画、ラノベなどを俯瞰していると、どう考えても、作者は“それ”を終わらせる気などなく、どこまでもいつまでも、永遠に「世界観や設定の、謎や伏線」は、ただひたすら物語内に散りばめられ続けるだけで、着地はおろか、回収すらまともにされずに、作品の発表ペースがフェイドアウトしていくか、作者がお亡くなりになるまで続いて、そのまま未完で終わるのだろうなと思える物が多すぎる。
『エクセル・サーガ』は、ことさら漫画史に金字塔を刻むというほどに持ち上げるほどの作品ではないかもしれないが、時流とトレンドに流されて、行き当たりばったりで(それ自体は、もともとギャグ漫画だったのだから構わない)ばら撒かれたトンデモ設定の数々を、もう「なんか深夜のアニメで観て興味を持って、原作漫画を読みに来ました」的読者も新規さんでは現れないだろう、15年という、平成漫画界で見渡せば、中期連載期間ほどの尺を、無理もこじつけも全て清濁併せのんだ先で、力業含み全部畳み終えて幕を閉じたという作品としては、むしろ、無数に氾濫し続けるオタク向けコンテンツ群を思う時には、全ての送り手が、この程度で良いので、六道氏レベルの覚悟と気迫を持って、作品の最終回を送り出すその瞬間まで、しっかり責任感を維持してほしいのだとは思うのである。
思えば、巨匠と呼ばれる作家の多くは、宮崎駿氏の『風の谷のナウシカ』も、大友克洋氏の『AKIRA』も、“それ”をやれている作家だって少なくはないはずなのだ。
確かに、漫画やアニメは“作品”ではなく“講談”である側面もあるかもしれないが、逆にサブカルチャー文化の極みでもある現代は、それらを兼ねるコンテンツコントロールもあるはずである。
はたして「へっぽこ実験」は、見事な着地をしたのか?
『エクセル・サーガ』ラスト近く。原点回帰(と、初期とのギャップを埋める保険)として、第一話冒頭近くをなぞる展開が描かれ、あぁ六道氏はようやく、この「終わりそうにない物語」の着地点を掘り当てたのだと実感が出来た。
読者だって人間だ。決して“与えられるコンテンツを、家畜のように消費するだけの存在”ではない。「なんか面白いから」で読み始めた漫画でさえ、さんざん意味深な伏線を貼りまくられ続けて、10年以上の歳月をその作品と付き合えば、相応の「幕の閉じ方、風呂敷の畳み方」を見せてもらわねば成仏も出来ない生き物なのだ。
そういう意味では、謎や思わせぶりを詰め込み過ぎた作品が、そこまで付き合ってくれた読者諸氏に対して、最低限送り手として責任を果たすということは、どこまでの労力とエネルギーが必要なのかを、一つの(それこそ、10数年前にアニメ化が予見した)「へっぽこ実験」の結果の一つとして、オタク市場は己が身を、今一度顧みる素材にするべき漫画作品であると思う。