広げ過ぎた風呂敷と『Holy Brownie』

しかし、連載も10年目を迎えようかという頃合いには、作者の中での「初期序盤で既成事実化させてしまったギャグ的ガジェットや実際の展開」と「実は高度なSFファンタジーだったのだと、読者を唸らせるだけの持ち駒の配置と作戦」とのバランスはとれたようで、各自キャラの馬鹿さ加減はブレないものの、俄然「謎めいた伏線要素」の強調がさらに加速し始めた。

ネタバレのようで、知らない人にはネタバレにならない程度に、それら“『エクセル・サーガ』の、全てのトンデモをシリアスに結び付けるロジック”を明かすとするならば。
実は作者の六道氏は、『エクセル・サーガ』の連載途中から、他誌(から始まって、途中から『エクセル・サーガ』と同じ雑誌に移動したが)で連載を開始した『Holy Brownie』という作品の根幹設定をクロスオーバーさせることによって、トンデモSFパロディギャグ漫画だった『エクセル・サーガ』を、まるであたかも当初から計算されつくして始められた、ハードSFファンタジーとして帰結させようとしたらしい。
『Holy Brownie』は(当初はアダルトコミックとしてのコンテンツアイディンティティもあったようだが)“神様”に仕える二人の小人天使が、時空も世界観も毎回飛び越えながら、超能力ともハイパーテクノロジーとも、魔法ともとれる技術で、歴史改変トラブルを解消するミッションに立ち向かうというSFファンタジーコメディ。
要するに、『エクセル・サーガ』の世界観全てを、その二人の小人が作った世界だという前提論に押し込んでしまえば、どんなトンデモも馬鹿げたSFガジェットの存在も正当化できるという万能的発想。

『エクセル・サーガ』での、実際の伏線や設定、世界観の回収は、作者曰く「(引用者註・最終回では)雑誌掲載時はペースの配分を間違えて伏線の回収が間に合わなかった」と語っているほど大急ぎな上に、目まぐるしい速さでの風呂敷畳みに終始しており、最終回が終わった後に描かれた番外編では登場人物の一人に「バカ設定なのに厨設定の袋小路にはまり込んでグダった作品」とまで言わせている。

最終巻、主人公の野望はようやく踏み出される

確かに今思えば、連載開始初動での、イルパラッツォとハイアットの出会いの関係性などは、あえて初対面のはずの両者に“あのキャラ”が、あらかじめ疑似記憶を植え付けていたと解釈すれば整合性がとれるのではあるが、むしろ、作者が「これをただのギャグ漫画で終わらせずに、本当に“サーガ”にしてしまおう」と手を付け始めたころ合いで貼られた「イルパラッツォとマッドサイエンティスト博士の因果関係」や「エクセルの先端恐怖症」等の伏線は、いざ最終回を終わって見返してみれば、必死にシリーズ全体の全ての要素に整合性を持たせようと頑張り過ぎた結果、たいした意味のある伏線ではなかった(まぁ、必死になって“それら”も回収した辺りには、作者の本気の凄みまでは感じられたが)という、かくも作劇というのは、後付けではどう取り繕っても、当初のエネルギー係数が決まっている以上、風呂敷を広げ過ぎても、畳むのに苦労するだけだという貴重な実例を生むに至ってしまった。

オタク向け漫画の、これからの課題

しかし、むしろ、今現在も続く数多の「オタク向け、SF、ファンタジー大長編作品」で、イマドキは10年、20年続く作品も少なくはないが、この作品ほど、そこでの「読者を煽るための風呂敷」を好き放題に広げるだけ広げて、これ以上ないというところまで広げておきながら、そこで作品の中で無数のポイントに配置した伏線要素を、回収し忘れはほぼ皆無の領域まで拘って、無思慮にギャグ漫画として始めた初動までをも含めた“謎解き”を、やってみせて大団円まで持ち込んだ作品というのは、実は意外と少ないのではないだろうか?(この辺り、浦沢直樹氏の平成の代表作品『MONSTER』『20世紀少年』辺りと比較すると面白い)

確かに、初動で無軌道にトンデモギャグ設定を投げ散らかし過ぎてしまった報いもあってか、最終回に至るまでの全謎解きや伏線回収は、『エクセル・サーガ』と『Holy Brownie』とを、何度往復して読んでもなかなか理解しがたいものがある。

なにはなくとも、大団円

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