富野由悠季という表現者の領域

『ガンダム』の富野監督は、自身絵心がないことをコンプレックスに(外様の筆者から見ると、充分に絵画の基礎素養はお持ちなのだが……)、作画こそ作品単位での“共犯者”と呼べるべき他者を立てるが、音響に関しては自らが現場にも出向き、そこで音響監督を差し置いて、声優への演技指導を熱心に行うことでは有名である。

そういった音響セクトへの内政干渉が遠因だったのかどうかは分からないが、『ガンダム』では、テレビ版と劇場用映画第1作『機動戦士ガンダム』までの音響監督を務めた松浦典良氏が、突然、劇場版第2作『機動戦士ガンダム 哀・戦士編』(1981年)直前に降板した騒動があったが、一方で富野監督は、後年演出をした『機動戦士Vガンダム』(1993年)での総監督演出コントロールに振れて、こんなことを語っている。

ウッソ(引用者註・主人公の少年)のお母さんが初めて出てくる話数の演技指導の時に僕が立ち会えなかったんです。(中略)見事に失敗してくれて、そのあたりは困ってはいるんですけれども、しょうがないですね。

ラポート『富野語録』富野由悠季インタビュー

そして、そのコメントの合間に、こんなムック編集者の注釈が挿入されている。

(編註・出ました演技指導! この本を読んでくださる若い人には理解できないかもしれませんが、富野作品のキャラクターが生きているのはこれがあるお陰といっても過言ではありません)

ラポート『富野語録』富野由悠季インタビュー

そしてまた、富野演出の特徴としては「脚本家に依存しない」いや、もっと正しく、批判を承知で書けば「アニメの脚本家を信用していない」という点が挙げられる。

富野監督のアニメ総監督作品第1作になった『海のトリトン』(1972年)に関しても、インタビューでその最終回に触れこう語っている。

あれは僕です。あの落としどころだけは、1クールおわった時点ぐらいで思いついていたんですけど、誰にも言いませんでした。だから26話(引用者註・最終回)のシナリオは僕が書いているんです。書いているというのも実は嘘で、ぶっつけ本番でコンテで仕上げました。どうしてそういう風にしたかというと、TVマンガのシナリオライターがはっきり言ってとても嫌いだったからです。子供のものだからと、バカにしてるんですよ。だからああいう設定を用意しても、彼らに却下されるだろうというのがはっきりわかっていました。それは説得出来るものではないと覚悟がありましたから、慇懃無礼で最終回はシナリオから僕が全部いただいたのです。これはもう職権乱用です。ですから『海のトリトン』で仕事をしたライターは、僕のことが大嫌いです。

キネマ旬報社『富野由悠季全仕事』富野監督インタビュー

とも書いており、実際に富野監督は、脚本家から上がってくる脚本は、たたき台としてしか使用しない演出で有名である。

富野作品を観ていると、クレジットに「絵コンテ・斧谷稔」とテロップされることがあるが、斧谷稔とは富野監督が持つ、いくつかのペンネームの一つである。本来は絵コンテも総監督とは分業分担するのが基本ではあるが、富野監督は自身が手掛ける総監督作品では、多かれ少なかれ必ずどこかで脚本を変えるプロセスを含む絵コンテ作業への介入をおこなっていて、そこで自らが元の脚本を絵コンテ段階で大幅に変えた場合などは、特にクレジットされることが多い。

つまり、富野作品の場合(これは宮崎駿監督や押井守監督にも言えるが)作品が真っ白な状態から、フィルムとして完成する瞬間までの、全てのプロセスになんらかの形で関わり、そこでのセクト単位の連携を逆算しながら、トータルに作品を作り上げていくスタイルを持っており、そしてそのスタイルは、実写の映画やドラマでは徹底することにかなり無理があるが、アニメ作品(特に80年代序盤までの)であれば、30分、2時間、1年間の作品を、そのほぼ全てを自分の個人創作のようなところで、管理することが不可能ではないメディアなのだ。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事