前者はまだ、映像をエンドユーザーとして楽しむだけの人にも理解はしてもらえるだろう。そこを丁寧に因数分解していけば、簡単に「大ヒットした漫画やアニメの実写映画が、なぜ殆ど駄作になるのか」を、構造論として把握することも可能だ(本筋ではないので、その話は今回は丸ごと割愛)。

しかし、後者に関しては、実は観る側で意識できることはほとんどなく、しかし明確に、エンドユーザーの深層心理に対して、有機的に作用する大きな要素であることは確かなのだ。

例えば実写映画で、雑踏のシーンがあった時、当然ロケで撮影がされる。その時、演出上必須だと思われる俳優や大道具、小道具はスタッフが用意するが、監督が黒澤明かFrancis Ford Coppolaでもない限りは、そこで出来る範囲のカメラアングルやカット割りを工夫するだけで、後は雑踏をあるがままに写すことになる。

その時、演出意図を阻害する要素が写り込むのであれば、何かしらの手段で排除するかもしれないが、それ以外の「雑踏の要素」は、演出意図とは関係ない物も、あえて完成フィルムには含まれるのだ。

この、演出意図と関係ない“表現にとって無意識の雑情報”の数が、多層化して積層することで、皮膚感覚(これも、今回の『ガンダム』論の、大事なテーマである)やニュアンス等を無意識に生み出しフィルムに定着させて、最終的に映像作品を普遍的な物に仕上げる重要なガジェットになるのだ。

繰り返し、分かりやすく言えば、アニメはあくまで「無から有を生み出す表現」であるから、そこで描かれる、表現される画面の全てには、あらかじめ必然性と演出意図が含まれているため、作り手が人である以上、どれだけ多様性を込めようとしても、自ずとそこでの表現範囲は限られてくる。つまり「監督や作画マンが考えてもいなかった存在」は、画面の端にでも登場させることは不可能なのである。この1点だけを以てしても、実はアニメという表現手法は、この論の先で述べたほど、実写に比べて表現の自由度のアドバンテージが高くないのである。

それゆえに、アニメーション作品の、特にテレビアニメに関しては、上で書いた「映画は監督の物。テレビは脚本家の物」が当てはまらない表現手法に至ってくる。

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