前回は『山際永三インタビュー 第二夜「山際永三と『コメットさん』と上原正三と」』

代替テキスト
『帰ってきたウルトラマン』テロップ

――監督は『帰ってきたウルトラマン』(1971年)では、ウルトラ新規参入の石堂淑朗氏(『暗黒怪獣・星を吐け!』)や、脚本新人の田口成光氏(『怪獣少年の復讐』・『次郎くん怪獣に乗る』)や、本来は監督である実相寺昭雄氏の脚本作品(『ウルトラ特攻大作戦』)や、本来は俳優である岸田森氏の脚本作品(『残酷!光怪獣プリズ魔』朱川審名義)、学生ファンの投稿を石堂氏が書き上げた『許されざるいのち』等々、様々な形でイレギュラーな脚本の監督を、請け負ってこられてきたわけですが。

岸田森夭逝の天才俳優・全記録
岸田森

山際 そうですね。「そういうちょっと変わった物は、山際(永三)に任せておけばいいや」というのはありました(笑) 僕は高校時代から映画が好きでね。映画について論文同人誌をやったりなんかしてね。人一倍、理屈をいうディベートが得意なわけですよ(笑) 「この人にこう言えば、この人はこう直すかな」とか、そういう点をいち早く指摘して「これはこうした方が面白いに決まってる」と、「我々がターゲットにしてる子どもたち、お客さんにしても、この方が良いに決まってる」とか言ってね(笑) 僕が断定的に理屈を言うでしょ? そうするとね、脚本家は誰でもそうなんだけど、せっかく自分が一生懸命考えて作ったのに、「ここはおかしい」「ここはこうすべきだ」って山際に言われるとね、なんかちょっと、それは直すのは大変だなって意識はあるわけですよ。だから皆、なんとか防衛しようとするんですよ(笑) だけどね、僕が「ここはこうした方が良い」とか言い出すと、橋本(洋二)さんがバックアップせざるをえないわけですよ(笑) そうしないと僕が一歩も前へ進まなくなっちゃうわけだ(笑) だから僕は、あぁでもないこうでもないと理屈ばっか言ってね。皆その理屈に辟易しちゃうんですね(笑)

――ディベート上手というと佐々木守さんがすぐに思いつきますが、佐々木氏と監督が組んだ場合はどうだったんでしょうか?

山際 でも、佐々木さんは僕よりちょっと世代が若いし、僕は彼の師匠の大島渚とも仲がよかったから、だから彼も僕には一目置かざるをえないんですよ(笑) 面と向かっては、あんまり反抗できないわけですよ(笑) もちろん僕は、佐々木さんならこういう直しはやってくれるんじゃないかな、程度のことは言うんですけれども、佐々木さんと議論になったことはなかったです。

佐々木守関係の書籍群

――俳優の岸田森さんが脚本を書いた回も担当されましたが、どういった経緯で山際監督が組まれることになったんですか?

『怪奇大作戦』出演時の岸田森氏

山際 岸田さんは前にもなんか(脚本を)書いてたんですよ。「また書きましたからやってください」と来たわけなんです。熊谷(健)さんが読んで「これはまぁ、山際にやってもらうしかないな」と(爆) 最初はもうね、なんていうか(岸田脚本に)それこそもうテーマ性、メッセージ性がないんでね。困っちゃって(打ち合わせで)いろいろ言ってたんですけど。まぁ岸田さんは「どうぞもう、ご自由にやってください」みたいな話だから、だから部分的に、ちょこちょこと手を入れたことは事実ですけども、本筋はもう(岸田脚本と)ほとんど同じで、結構あれは、出来上がりとしては面白かったですね。

――実相寺監督と組むのは、難しかったんじゃないんですか?

脚本・実相寺昭雄『ウルトラ特攻大作戦』テロップ

山際 それはもうなんたって(笑) (実相寺監督が)自分で撮る予定だったつもりで書いたの(脚本)を置いてっちゃって。で、なんか「忙しい」って言っていなくなっちゃったわけだから、会うこともしなかったんですよ(笑) 僕も直しようがなくてね(笑) 実相寺さんは、僕とは全く違ってテーマなんかない人だから(笑) 感覚だけがあるような人でね。実相寺さんのテレビのドラマなんか観てるとね。このカットはどうやって撮ったのかなとか思うわけで(笑) もう、全然特別な撮り方をするんですよ。そういうのが面白いわけだ。僕はね、普通に写ってれば良いという撮り方だから(笑)全然違う。

生前晩年の実相寺昭雄監督

――自分の私見なんですけど、例えば実相寺監督は、写す対象の前に遮蔽物を置いて、その隙間から、ブライアン・デ・パルマのように狙う。でも山際監督は、画面の奥行きの手前と奥にそれぞれ対象を設定して、その立体感のある構図同士のカットを積み重ねていって、映像理論を駆使してお撮りになっている。特に『ウルトラマンタロウ』(1973年)期においては、その映像理論が、合成予算の少なさを補って、本編部分と特撮部分の、独特の一体感をもたらしたと思っています。そういった映像基礎理論を用いて、飛躍したファンタジー脚本を、リアリズム映像の中に落とし込むのが山際式だったのかなと思うのです。

山際 はい、確かに僕は映像理論ですね。市川(森一)さんの幻想的な脚本なんてのは、実相寺さんが撮りゃもっと不思議な世界になるんでしょうけど(爆) 僕はそういうある程度、常識と非常識的なものとの繋ぎ方をね、映像理論で結びつけて、お客さんに「あれ? もしかしたら本当にあるかもしれない」と思わせるように、撮らなきゃいけないっていうのが基本にあるからね。橋本さんなんかに言わせれば「山際の言うことは、一番解りやすいんだ」と「解りやすいから、賛成せざるをえないんだ」と(笑) そういうことで、現実と非現実の結び方の巧さを、努力したってところはあると思うんですよね。

――『帰ってきたウルトラマン』と前後した時期、円谷プロの大リストラを受けて、離脱した人達が、日本現代企画という会社を立ち上げて『シルバー仮面』(1971年)を製作しましたね。ある意味、本家円谷の『帰ってきたウルトラマン』と、そこからこぼれた謀反会社の作った『シルバー仮面』と。双方に、橋本プロデューサーが絡んでいて、山際監督も演出しています。

『シルバー仮面』

山際 僕はまぁ、会社同士の争いに巻き込まれたくなかったんで(笑) 橋本さんなんかはまぁ、現場の若い人達を育てたいという気があるから、脚本家にしろ、技術者にしろね。円谷プロの体制の中で、商品化権でガバガバ儲けてるっていう、そういう経営体質があって、次男の(円谷)皐さんなんかもね……。そういう経営体質から独立して、自分達のやりたい物をやりたいという技術者なんかを、応援したいっていう気が(橋本氏には)あったんでしょうね。だから、宣弘社の流れで日本現代企画の作品を作ったんです。だけど、どっちが先かわからなかったけど、円谷の『ミラーマン』(1971年)が同時進行で被っちゃったのね。

――山際監督は、『ミラーマン』の方にはお声がかからなかったんですか?

山際 『ミラーマン』はフジテレビでしたからね。僕は(TBSの)橋本さんの一派だと思われていたから(笑) ただ『ミラーマン』のプロデューサーの淡(豊昭)さんというのが、これが橋本さんの息がかかった人だったから(笑) 元はTBSにいた人で、真船(禎)さんや実相寺さんなんかと一緒に、TBSを辞めた人だったからねぇ。だから人間関係が、複雑に入り組んでいて難しいんだけど、見事に(『シルバー仮面』と『ミラーマン』)両方かち合っちゃって、表と裏で同時放映になっちゃったね。

『シルバー仮面』第4話『はてしなき旅』脚本・市川森一 監督・山際永三

――そういう意味で今気づいたのですが、実相寺監督や飯島敏宏監督が、60年代終わりにTBSを辞められた。そしてまた山際監督も、1969年に国際放映を辞めてフリーになられた。当時はそういう形で、才能あるテレビ演出家が、こぞってフリーになる流れがあったのですか?

山際 それはあったと思いますね。例えばそれは、実相寺さんと同じ頃に(TBSを)辞められた今野(勉)さんらが、テレビマンユニオンを創り上げたのが60年代。僕の場合、新東宝が潰れたのが1961年で、国際放映にまわってフリーになったのが1969年。それはやっぱり企業本位ではなくて作品本位でやろうとした人達が、フリーになっていく必然的な流れがあったんですね。

山際監督が飛び込んだ「ウルトラマンの世界」次回は引き続き『ウルトラマンA』(1972年)や『ウルトラマンタロウ』、そして『ウルトラマンレオ』(1974年)に参加された時の話を伺います。次回「山際永三とエース、タロウ、レオと」さぁみんなで読もう!

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