前回「東野文学の個性と、80年代ミステリーニューウェーブ」でも書いたのだが、本作『卒業』と前作『放課後』辺りで、メインのコアとして用いられる(そして、東野作品における動機付けとしては、よく非難対象になる)東野圭吾作品のベースに流れてる「おんなのこってわからない」は、何度も言うけど、自分は以外と嫌いじゃないのよ。

本作の作品構造たる「まず最初にワカモノグループがあって、その中で殺人事件が起きて、仲間同士協力して犯人を捜す」という大枠としては、『放課後』よりもさらに、栗本薫『ぼくらの時代』小峰元『アルキメデスは手を汚さない』に、より近くなっている。
それら、栗本薫・小峰元両氏と東野氏の圧倒的な違いは、青春の持つ、甘酸っぱさのような余韻や、青春期独特の儚さへの憧憬を、事件の結末と、文字化されているラストシーンで明文化するのではなく、結末がもたらし導くだろう「そのあと」に役割を担わせるという手法(自覚のある手法ではないのかもしれないが)。

それを東野氏は、処女作『放課後』衝撃のラストで既にものにしているのだが、本作の「仲良しグループの、見事なまでの、粉微塵の砕け散りっぷりさ」は、その後の東野小説構造学独特の「コンセプトのあざとさ」を、これもまた、この時期にして既に表しているのかもしれない。

一方、これもいろいろ取り沙汰されている「あまりにも専門的で、また分かりにくい」とされた、茶道の「雪月花之式」という遊技を用いた本作の殺人トリックは、「そんなもん、予め専門知識がある人じゃなきゃ、トリックの謎にたどり着けるわけないじゃないか」という点では、後の『探偵ガリレオシリーズ』における、物理や化学にも近い「反則ギリギリの手」ではあるのだが、物語(というかテーマ)構造が初期計算で持ち込んでいた「仲良しグループの、表面上の仲の良さの裏側で流れる憎悪」が、うまくトリックイベントの発想の転換に繋がっており、決して茶道の遊戯のシステムやルール性のみに依存して成立しているわけではない。
その「雪月花之式」のルールや流れも、作中で図入りで丹念に解説はされているためか、筆者自身は、言われるほどには難解さは苦にはならなかった。

思考ゲームは推理小説に関わらず、そこで費やしたエネルギーに、見合う対価が得られることで納得と満足を生む。
この雪花月之式ゲームを用いたトリックの謎解きもまた「被害者こそがトリックを仕掛けた張本人だった」というロジックで、そこまでへの解釈と理解の苦労と徒労が、ちゃんと報われる構造になっている(むしろ、密室トリックの種明かしが「窓の鍵が実は形状記憶合金でした」の方が、よっぽど「ずるい」ような気がする(笑)この辺は『探偵ガリレオ』へ繋がるかと)。

一部で聞かれる「登場する若者達が皆、成熟・老成し過ぎている」に関しては、既に今年で55歳を迎えてしまった筆者としては、もはや「そうなんだろうか。自分が大学生だった頃ってどうだったっけかな」と、そこを測る物差しを手放してしまっているので、判断ができなかったりするのだが(笑)

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