『ウルトラマン』(1966年)終了後TBSのウルトラシリーズは、東映制作の『キャプテンウルトラ』(1967年)に移行した。

『ウルトラマン』の制作スケジュールが、とにかく切羽詰ってしまっていたので、一度シリーズを休止して、製作体制を立て直したいという円谷プロからの要望があり、それに対して、TBS側としては、いまやドル箱となった『ウルトラ』を、おいそれと休むわけにはいかないとも考え、折衷案として、東映に制作を依頼したのだ。

東映の『キャプテンウルトラ』は、「宇宙冒険活劇特撮怪獣物」という新機軸のジャンルに挑戦したが、特撮はなにより、経験と蓄積の世界。

そこではどうしても経験値の差が出て、円谷を越える人気作品には成り得なかったが、東映のプロデューサー・平山亨氏はウルトラシリーズに関わったことで、円谷の文芸の市川森一・上原正三と出会い、そして『ウルトラマン』でムラマツを演じた小林昭二氏と出会ったことで、後に『仮面ライダー』(1971年)を制作し、成功に導いた。

『仮面ライダー』はやがて、第二期のウルトラと真っ向勝負を展開し、数字的には見事に勝利するのだが、その話はまた別の機会に語るとしよう。

『ウルトラマン』の狂騒的製作体制から、いくばくかの休息・充電期間を経た円谷は、金城哲夫・円谷一を中心に、新しい『ウルトラ』を企画し続けていた。

そこで生み出された新作『ウルトラセブン』(1967年)は、前作で好評だったヒーロー・敵・防衛隊という図式を元に、宇宙侵略戦争をテーマにした『ウルトラ・アイ』や『ウルトラマンジュニア』という企画が下敷きになっている。(余談だが、ファンの間では有名だが、セブンの必殺武器「アイスラッガー」これのネーミングは、この時の企画タイトルの名残である)

それらの初期企画では、主人公モロボシ・ダンは少年であったり、ウルトラ警備隊の正式隊員ではなく、警備隊の専用車・ポインターの専属運転手だったりした。

カプセル怪獣も、オリジナル怪獣のミクラスやウィンダムではなく、レッドキングやゴモラなどといった、過去のシリーズの人気怪獣を登場させる予定だった。

この辺りにはまだまだ、前作『ウルトラマン』の二番煎じにはしたくないのだという、企画側の紆余曲折が見て取れる。

前作との差別化をはかるため、敵方を宇宙人に限定したことなども、画面の変化を狙ったのだと思われる。

実際に制作された放映第1話で相手をつとめるのが、操演で表現されて、格闘も出来ないクール星人であったのも、そういった試行錯誤の表れからであろう。

筆者達現代の人間は、現在という時点から過去を見つめる為に、ともするとその視点は「過去にとっての未来」としての結果から、物事を逆算して捉えてしまうことも多々ある。

ウルトラに関して言えば、現代を生きる我々にとっては、セブンはウルトラマンに続くウルトラヒーローシリーズの二作目であり、それは例えば、ウルトラ兄弟の次男と三男であったりといった感じで、一つの流れの中のバリエーションのように感じ取っているが、このセブン企画時においては、後に展開するウルトラシリーズは、製作者達にとっては全く念頭に入っておらず、『ウルトラQ』と『ウルトラマン』が全く別の世界の別の企画の作品であったように、セブンに関しても当時の円谷スタッフは、前作『ウルトラマン』のバリエーション企画としてではなく、全く別の方向性、別のジャンルを目指した「新しいウルトラ」を作ろうとしていたのだった。

しかし、そこにTBSプロデューサーである三輪俊道氏の意向が入り、スポンサーのマルサンの意向が入ることで、『ウルトラセブン』は前作をはっきり踏まえた、物語フォーマットの作品に成り立っていくのである。

思うに、当初の「少年が主人公」という『ウルトラマンジュニア』の企画発想は、ともすれば、現実の戦争を想起させてしまうだろう「恒星間侵略戦争」という物語舞台設定内において、その物語を、正面から主人公が受けとめることに(自らの内面性から)危険性を抱いた金城哲夫氏が、「少年の視点」というレトリックで自身の内面の吐露を、防止しようとしたのではなかったのだろうか?

「主人公の少年性」という一面に関しては、実際のセブン本編においては、脚本面というよりは、満田かずほ監督による主人公の演出面でその片鱗が残るのであるが、結果、大人としての自我を持ってしまった青年を主人公に据えてしまったことによって、主人公・モロボシ・ダンは。セブンに参加した多くの脚本家・演出家により、様々な葛藤や悩みを与えられてしまい、それを見過ごせるスタンスにいなかったメインライター・金城氏も、やがては自ら、自身の内面性と、ついに向き合っていかなくてはならなくなるのだが、それもまた、別の機会の話であろう。

いつの時代も、子ども向けテレビの世界は、過去の栄光の踏襲と、スポンサーである玩具会社の呪縛からは離れられないでいる。

近年、そのシステマチックな作品への関与の仕方から、バンダイなどの玩具会社が、アニメ・特撮ファンの間からは揶揄されて見られる傾向があるが、それは別に現代に発した現象ではなく、50年前にも、既にあった形なのである。

『ウルトラQ』で怪獣ソフビを売り出して、社会現象にもなるほどの大ヒットを飛ばした玩具会社マルサン(セブン当時はマルザン)は、ライバル会社が大ヒット番組『サンダーバード』(日本放映1966年)のメカ群のプラモデルを社会現象になるほど売り上げを伸ばしていたため、対抗意識を燃やした為、メイン商品を怪獣や宇宙人のソフビではなく、数々のメカニックのプラモデルに推移させて登場させるようにプロに命令した。後述するが、その結果『ウルトラセブン』は宇宙戦争ジャンルになるしかなくなるが、宇宙人や怪獣のソフビは、マルザン時代は結局、主人公のセブンとダン、カプセル怪獣と「セブンに出てくるメカの敵」のキングジョーとユートムを抜かすと、初期に登場したゴドラ星人、ペガッサ星人、イカルス星人、メトロン星人しかソフビ化はされなかった。

主人公・ウルトラセブンも、企画初期では等身大で活躍するヒーローで(初期数話に、その影響が残る)あり、だからセブンのスーツは、初代ウルトラマンのような、手術用手袋と足袋ではなく、ロケに出られるブーツとグローブで整えられたのだ。

そんなセブンが企画推移の結果、結局『ウルトラマン』のバリエーションっぽいルックスになってしまったのは、円谷プロサイドのノウハウの敗北宣言であることも否定しきれないだろう。

例えばそれは、主人公・ウルトラセブンのデザインにも言える。

セブンのデザインを担当したのは、もちろんウルトラのデザイナー・成田亨氏であるのだが、成田氏は、当初セブンをデザインするにあたって「青いヒーロー」を想定していた。

デザイン自体はそう変更はないので、これを読んでいる皆さんには、単純に青いボディのセブンを想像してもらいたい。

科学の銀と、血の赤だったウルトラマン。

それとは全く意匠を変えた、青と銀のウルトラセブンという発想は、両方の作品を全く違う発想で考えていたからこそ、出てくるアイディアであったと理解できる。

ところが結果的に、セブンの配色はウルトラマンと同じ銀と赤に変えられてしまった。

これには確かに「ブルーバック合成を考えると、体が青では合成処理ができない」という制作現場的な理由ももちろんあるのだが、それ以上に、スポンサー・マルサンの「児童心理学的に子どもは赤を好むから、新しいヒーローも赤い色が望ましい」という意向を踏まえなくてはならなかったからなのである。

『ウルトラマン』に続いてTBSからの出向という形でセブンの監督についた実相寺昭雄氏は、後年その著書の中で、現場でセブンを始めて見た感想を「まるで赤唐辛子のようだ」と皮肉っている。

また、上記したように『サンダーバード』にあやかりたかったマルザンの要請により、セブンの防衛隊組織・ウルトラ警備隊の装備するメカニック群は、前作よりも大幅に増強されることになった。

特にウルトラホーク2号やマグマライザーなどは、露骨にサンダーバードの影響を受けている。

このメカニック的な設定増強は、つまりそれらを装備していても不自然さのない防衛隊の組織設定が必要とされ、前作の科学特捜隊という、どこかアットホームな警察的捜査組織から、一気に国連軍的な軍事組織としての体裁を、自然に整えていかざるを得ない流れを生んでしまい、これもまた、セブンという世界観に対して、戦争絵巻的な一面を補完してしまう要因となった。

そして時代はベトナム戦争の真っ只中。

その渦中にあって、日本の映画・文壇文化などでも「正義とは何か」「戦争とは何か」「国家とはなにか」といったテーマに、鋭く切り込む作品が送り出されていた。

もとより円谷は、若い世代のクリエーターが文芸面などを支えていたこともあって、「戦争構造の中の正義の宇宙人」というセブンの構図は、それら若き才能を刺激するには、充分であった。

当時の円谷スタッフの気概の形は、脚本家・市川森一氏によって後年『私が愛したウルトラセブン』(1993年)でフィクションの形を借りて描かれるが、そういった時代的空気もまた、セブンの世界を重く包み込んでいくのである。

金城哲夫氏の「宇宙正義と地球正義」に関しては『ウルトラ作戦第一号』評論で語ったが、本作ではもっと顕著に各作家・演出家が「宇宙正義と地球正義の違いは」へと踏み込む作劇を展開しており、それへの対抗心のように、金城は頑なに「正義はあるんだ。一つなんだ。それは全世界を一つにする形なんだ」というスタンスを守ろうとする。

『宇宙囚人303』『ウルトラ警備隊西へ』など、前半の脚本は、常に意固地なまでに「地球正義は宇宙正義と一致している」という前提で書かれているのだ。

しかし考えてみると、この2本までの段階で、金城氏の持つ「宇宙正義=地球正義」という、その信条に異論を挟んだ作品は、まだ誰の手によっても書かれてはいない。

唯一考えられる要因としては、金城氏が執筆した『狙われた街』において、エンディングのナレーションがアイロニカルな余韻を持たせたがった実相寺監督の要望により、佐々木守氏によって改稿された事実ぐらいであり、しかしそれでも『宇宙囚人303』の脚本は、金城氏によって同時期に既に書かれているのである。

おそらく金城氏は、当初のプランニングから制作開始に至るまでで、局やスポンサーの意向で変えられた「セブン」の作品世界や設定が、やがては、自分の秘めた信条を侵食し、その時代的空気と共になって、自らの内面をも脅かすことになると、どこかで予測していたのではないだろうか?

金城氏のセブン脚本を順番に読んでいくと、特にその初期は、若槻文三氏の目指す方向性を、バランスよく修正しようとした苦心が見て取れるのだ。

若槻氏が暴走したとか、セブンの企画意図を理解していないとか、そういう問題ではない。

むしろ若槻氏はセブンの方向性を充分に理解した上で、前作『ウルトラマン』にはなかった「登場する宇宙人にもまた、彼らなりの侵略理由があり、それは宇宙人側にとっては正義なのだ」という、その後のセブンの作劇において、各作家が個々に展開した基本フォーマットを、『ダークゾーン』『超兵器R1号』などで、真正面から描いてみせたのだ。

金城氏は、かつて『ウルトラマン』で、佐々木守の『怪獣墓場』へ向けて、メインライターとしての立場から、作品世界観のバランスを戻す為に『小さな英雄』を書いた前歴がある。

今回もまた、それらの若槻作品に呼応するかのように、『魔の山へ飛べ』『零下140度の対決』を書き上げるけれども、既にセブンの作品世界の舵取りは、金城氏の思惑や信条から離れていて、むしろそこへ市川氏が『盗まれたウルトラアイ』を持ち込み、さらにまた、同郷の盟友・上原正三氏までもが没脚本『300年間の復讐』を持ち込んだことにより、セブンは「乖離した宇宙正義と、地球正義の間で揺れる孤高の宇宙人」と化していってしまうのである。

そして決定的になるのが、TBSからの出向プロデューサー・橋本洋二氏の参加であるのだが、この話はいずれまた、後半の話の感想で触れることもあるだろう。

先述したが、時代は既に『ウルトラマン』の頃のような、科学信仰の時代を通過しきってしまって、世界は東西冷戦と、ベトナム戦争に揺さぶられていた。

金城氏の思惑と違った形で、前作と差別化されたセブンという素材は、そんな時代の空気を敏感に感じ取ったスタッフによって、金城氏が一番向き合いたくなかった「現実」を描く舞台になっていったのである。

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