しかし。
大人気少女漫画家は、次々に一流出版社の編集とトラブルを起こし続けたため、その後生活4コマ漫画へ移籍し、さらに私生活でトラブルを起こした為に、女性向けアダルトコミックへ移籍しました。個々のカルチャーに上下はありませんが、業界的にはこの流れは、あきらかに都落ちです。
メジャー少女漫画家時代には華々しかった自サイトも、いつしか閉鎖されていました。今ではネットでペンネームの検索をかけても、無料の電子書籍サイトで、いくつかの、過去のアダルトコミックのタイトルが見受けられるだけです。
一方、人気アニメの女性声優は、当初トラブルと関係ないと思っていた20年ほど前にネットで見かけた時は、声優アイドルとしてやはりサイトを構えていました。しかし、冷静に考えてみると、その女性声優は、僕より一回り年齢が上だったのです。54歳の私の10歳近く上の女性が、20年前にアイドル……。まぁ声優界隈は「永遠の17歳」もいらっしゃる、特殊な世界ですので、私ごときがとやかく言う問題ではありませんが、声優が芝居やアニメではなく、自称アイドル業のドサ回りでCDを売って稼ぐしかない状況は、唖然とするしかなかったのは、事実でした。
そして、事の推移を知った私が、数年後にもう一度その名前で検索を掛けた時には……既にその女性声優のサイトは閉鎖されていたのです。
また、アダルトラノベで人気作家になった友人は、高校時代の部活動の一年先輩だったのですが、20代の頃の同窓会で大喧嘩を起こし、その後没交渉になったのですが、とりあえず小説というのはそれなりに息が長いコンテンツなので、四半世紀程前までサイトが更新されて新作も書かれていましたが、やがてそれもなくなり、しばらく日記だけが更新されていましたが、さらにそれもなくなり、サイトの更新も、2001年の新刊報告を最後に放置の状態です。
お判りでしょうか、皆さん。
今の私を、アンチ活動で誹謗中傷やその手伝いをしたり、歪んだ情報をアナウンスに提供したり、ネガキャンをしている人たちは、映画監督、歴史家、少女漫画家、声優、小説家、華々しい肩書が並んでおりますが、2021年現在、それらの肩書で現役で稼働している人は、実は一人もいないのです、皆無なのです。
その代わり、彼らに「お前には物書きは無理だ」「もう諦めろ」と言われ続けてきた私は、この通り、去年単著『スマホ・SNS時代の多事争論 令和日本のゆくえ』の上梓に恵まれ、公式サイトもスタートしました。
はたしてどちらが「肩書通り」でしょう?
まるでこれでは、イソップ物語の『ウサギと亀』の醜悪なパロディです。
私は、よく、若い人たちになぜか頼りにされることが多いです。生きる道を見失い、袋小路に入り、全てが敵に見えるようになってしまった若い人たちに、私はいつでも、同じことを言います。
「迷い道に迷い込んだら、事実だけを見なさい。事実は動かない。事実は上書きされない。事実を道しるべに、歩いていけばいいんです」
私は今、虚像で自らも誤魔化そうとしている、実際の自分を詐称している醜い存在や、今も生きているだろうけれど、かつての栄光の虚栄だけでは、食えてもいないだろう惨めな、まるで地縛霊か、水子の怨霊のような存在たちに、日常や業務や業界内信用を棄損され続けています。
ばかばかしいです。滑稽です。「相手にするな」誰もがそう言います。
しかし、そう思って放置すればするほど、その人たちは付け上がり、実際に個々が持っているだろう「本当の業界人とのコネやパイプ」を利用して、「市川大河の醜聞」を流通させ続けるのです。
だから私としましては、そういった地縛霊や怨霊の人達と私は違って「今を表現者として生きる」ことが優先ですので、法律を駆使してでも戦わねばなりません。
現実の「戦い」は、フィクションのようにカタルシスと勧善懲悪で爽快に割り切れるものではありません。
長い戦いになるでしょう。
前回の多事争論で述べた話と統合すると、残りの人生を全て賭けた戦いになるかもしれません。
しかし、既に私は、「負ける」ということだけはないということだけは確保してあります。
なぜなら、上記した人たちは、全て私と近い世代の人ばかりだからです。
まだ「元漫画家」「元小説家」は、肩書としては有効だと思いますし、「事実は動かない」のですから、その功績も遡って揺るぎはしないでしょう。
しかし、口先だけ「夢を追いかける」といいながら、やっていることとエネルギーは「他人へのネガキャンと中傷とSNSでの業界人なりきりごっこ」の人間が、残りの人生で本当に、映画監督や歴史家になれるのでしょうか?
逆を言えば、作家や漫画家、絵画家等であれば、何歳になっても、遅咲きで成就するということはありえる話です。実際に、若い頃から僕と同世代で仲が良かった女性は、20年ぶりに再会した時は、立派な美術館で作品が展示される、絵画家として花開いておりました。
なので、個人創作のレベルであれば、何歳になってもプロになることは、葛飾北斎の名を上げるまでもなく、不可能ではない筈です。
しかし、映画制作という膨大なシステムと「映画館にかける」というビジネスネゴシエイトの力を問われる「映画監督」は、相応の期間を、現場や業界の本当の内部で揉まれなければ、人脈も能力も身に付きません。
歴史家も、こつこつと地道な研究と発表と資料の発掘の積み重ねで、最終的に得られる称号のはずです。
私へのアンチネガキャンに時間を費やしている限り、おそらく彼らの「夢」が叶うことは、向こう20年の間には起き得ないでしょう。
もしくは、最初は真剣に追いかけていた「夢」が、年齢を経ることで「もうきっと叶わない」ことに自らが憤り、同じようにライターを名乗る対象(私)を中傷することで、夢をかなえられない自分を正当化したかったのではないでしょうか?
おもしろい話があります。その自称映画監督は、最初私を指して「アイツがライターなのは職業詐称だ。だって市川大河という名前でネット検索をかけても、結果が一切反映されないからだ」と叫んだのです。それは、私に言わせれば当たり前です。私がこの「市川大河」という名前を生み出したのは、ブログ『光の国から愛をこめて』を運営し始める時(2006年)であって、それは「プロのライターともあろう者が、怪獣人形と評論のブログを運営するのも恥ずかしい」という思いで作った仮名だったからです。ですが、そこまで言われては引き下がれないと、私はしっかりと、KADOKAWAやニッポン放送などで、市川大河名義で仕事をするようになりました。するとその自称映画監督は「webライターなんて、職業のうちには入らない」と言い出したのです。ここまでくると多少面白くなって、私は市川大河名義で紙媒体の原稿も書くようになって告知するようになりました。そうすると今度はその自称映画監督は「単著を出していないライターは、プロのライターではない」とまで言い出したのです。これには、私の友人ライター達も大爆笑です。その中傷を貼ったFacebookのコメント欄では「じゃあ俺もライターじゃないんだ(笑)」「しまった。俺もプロじゃなかったか!」と、ばかばかしさに大盛り上がりをしたものです。
ですが私は、既に「一休さんと将軍様」になってるようなやり取りの果てで、ちゃんと2020年に著書を上梓しました。
それでは、全ての条件をクリアしたのだから、その自称映画監督は私をライターとして認めてくれたのかといえば、今現在でもSNSで私を揶揄る時は「似非ライター」と呼びます。いったい、似非なのはどちらでしょうか?
いや、本当に「そんな夢」を本気で抱いているのであれば、今頃リアルで関係のない人間のアンチ活動やネガキャンに、無駄な時間を費やしている暇はないはずです。多分彼らは、バブル期のフリーター気質(それはちょうど、彼らが社会人になる頃にこの国で生まれました)のままでしかおらず、映画監督も歴史家も「夢を抱いている俺はカッコいい」のファッション、アクセサリーでしかないのではないかと、最近は思うようになりました。
私にはまだまだ夢がありますし、当座の目標もその夢のためにいくつも抱えています。
なので、無駄な回り道をしている暇が一日たりともないのが現状です。
皆さんも、気を付けてください。日常で語っている夢が、ファッションに変わった時、あなたの人生は「気分」に支配されるしかなくなるのです。
さて、今日の多事争論はそんなところです。