(以下の文章は、本映画公開時の2013年に執筆した物になります)

『ワールド・ウォーZ』(2013年)

 今やハリウッドでも、屈指の大スターでもある、ブラッド・ピットが製作と主演を務めた作品。
 キャッチコピーは「全人類に告ぐ、 来たるZデーに備えよ」「“最期“の世界戦争を描いたパニック・エンターテインメント」「家族を救うか 世界を救うか」等謳われている13年度の超大作映画である。
 一応ある種の映画ファンが共有しているネタとしては「内容はかつてないほどハッキリと『全世界規模のゾンビ映画』として作らられているのに、日本では配給会社と代理店の勝手な要望で、ゾンビ映画であることを一切明かさずに『ブラッド・ピット主演の最新作感動大巨編』として宣伝された」というのがあるが、それへのアンサーとしては「日本の配給側や代理店のマーケティング理論(笑)では『ブラピの最新作』であるという要素は、女性向けのホームラン確実要素なのだから、そこに『ゾンビ映画』などという、ボンクラ中学生男子好きする要素を入れてはいけない。むしろ、ブラピを好むタイプの女性は、ゾンビ映画を最も嫌悪する層なのだからして(註・多分電通辺り調べ)そんな『甘い団子と、けんちん汁が混ざったまめぶ』を、そのまま宣伝なんぞしても、女性顧客は迷うばかりで、映画館には来てくれない!」と思い込んでしまった為、宣伝を鵜呑みにしてやってきた、ブラピ目当ての女性顧客層は、まず確実に、開幕5分後からはドンビキして、映画の世界観に振り回される事になる(笑)
 とは言ってもこの映画は、想像する程残酷ではない、というか残酷描写は殆どない。
 それはやはり、ここ数年とにかく厳しくなっている、ハリウッド映画の年齢制限と、残酷描写基準の問題であり、実はこの映画は華麗にその問題をクリアーしつつ、逆にその問題ゆえに最終的にガッカリ大作(『さよならジュピター』(1984年)的)になってしまう辺りは、皮肉な物だとしか言えないのであるが……。
 とりあえず、配給会社が誰の口を塞ごうと、代理店が包囲網をどう敷こうが、この『ワールド・ウォーZ』は「紛れもないゾンビ映画」である。
 となると、生粋のゾンビ映画好きとなるボンクラな筆者が見逃してはならない。
 そう、ゾンビ映画マニアは、代理店や配給会社がどんなに感動名作に偽装させても、ゾンビよりも敏感に、その映画がゾンビ映画である事を察知して、映画館まで辿り着くのだ。
 また『ワールド・ウォーZ』がゾンビ映画である以上、ブラピが主演であろうが、ブラピの嫁役(ミレイユ・イーノス)の吹き替えを篠原涼子が担当していようが、『我々』はその映画を、かの『ナイト・オブ・サ・リビングデッド』(1968年)から続く、ゾンビ映画の歴史の中に鎮座させて鑑賞するし、吟味して解析して舐めつくして「ゾンビ映画として」どの程度のランク入りを果たすのかを探究する。
 名乗ろうが名乗るまいがゾンビ映画を作った以上、『我々』のその儀式から逃れる術はない。
 いわゆる「ジョージ・A・ロメロ式ゾンビ映画」の系譜としては『バタリアン』(1985年)が「全力疾走で襲ってくるゾンビ」を描き出し、『バタリアンリターンズ』(1993年)が「人とゾンビの純愛映画」というジャンルを打ち立て、『28日後…』(2002年)が「死者ではない感染症患者という概念」を持ち込み、『バイオ・ハザード』(2002年)が「残酷描写一切無しで、ロメロへ愛を捧げる」を成し遂げ、『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)が「もういいよナンデモアリで」を完遂させた。
 その歴史に、この映画は、新たな一幕を刻印するのであるが、ここまで「ナンデモアリ」のジャンルになってしまえば、最早そうそう思いつきだけでは、新たなセンスオブワンダー映画を生み出すことは出来ない。
 そこでブラピは、明確には物語性の希薄な「もしもゾンビがいたら、お前等どうするよ?」的な、まるで2ちゃんのスレかラノベのタイトルのような内容が、宮部みゆき『理由』のような「架空のインタビューの積層構造」で書かれてる、マックス・ブルックス著の『WORLD WAR Z』を原作に選んだ。
 過去のゾンビ映画の殆どは、推理小説で言うところの「クローズド・サークル」でその物語は展開していたのだが、ブラピは根底から発想を変えて、ゾンビの現象を全世界規模として捉え、そこでのパニック描写やゾンビの巻き起こす恐怖を、「人を食う」という直接的なビジュアルから乖離させて「状況」その物の恐怖へと置換した。


 推理小説風に言うなら「状況を作り上げた時点で犯人が勝ちのパターン」をやったのだ。
 要するに、ブラピが対峙するのは「ゾンビになってしまった愛する人」でも、「個性的な容姿で執拗に追ってくるゾンビ」でも「我が身が食べられる恐怖」でもなく、「ゾンビたちが作り上げてきた状況その物」であり「ゾンビに埋め尽くされた社会」。
 それは確かにかつてないアイディアであり、過去においてはB級作品としてしか成立しえなかった「ゾンビ映画」というジャンルにおいて「背景設定」としてしか描くことが(主に予算的な意味で)出来なかった未曽有の描き方であり、ゾンビ好きであれば興味をそそられる事この上ない設定。
 加えてその規模は「ブラピが制作・主演するに相応しい予算バケット映画」としても一致し、実際にこの映画は1億2500万ドルという、ゾンビ映画空前破格の予算が投じられている。
 「ゾンビ映画を国際的、人類社会規模スケールで真正面から描き、ブラッド・ピット制作・主演で全世界規模のカタストロフを救う映画」
 うむ、これは確かに物凄く聞こえは良い。
 耳触りも良いし、ゾンビマニアであれば間違いなくそそられる斬新な設定と企画だ。
 しかし、これを読んでいる貴方はこんな台詞をどこかで聞いたことはないか?
「誰もがやれたらやりたいと思いつくにも拘らず、誰もやらなかった事とは、つまりいざやってみたら必ず『やらなければ良かったのに』という結果を呼ぶ事を、過去にそれを思いついた人達が皆、賢明に気付いていたからだ」という名台詞を。
 そう「やらかしてしまった」のだ、「僕達のブラピ」は。
 冒頭はこの手の映画らしく(というか『ドーン・オブ・ザ・デッド』そのままに)平和な家庭の日常的な朝から始まる。その後、家族で楽しくドライブ……としゃれこんだところで、なんの前触れもなく、突如怒涛のようにゾンビの群が湧いて襲ってくる。とりあえず、追われたら逃げるというのはゾンビ映画だろうと、泥棒コントだろうとお約束。ブラピは家族を連れて、とにかく「今そこにある危機」から逃げおおせようと奮闘する。
 先にお断りしておきたいのは、この映画、編集が上手いのか下手なのか、全く断定できない。
 要するに、要所要所で表現規制ギリギリの残酷描写を入れようと、頑張って演出してみたものの、どれもこれも(一番大きな部分に関しては後述)端からカットされまくった為、ところどころに於いては、シーンやカットが繋がっていない展開があるのだ。

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