――監督が『ぐるぐるメダマン』を演出された頃は、子役の世界もプロ化が進んでいたのですね。

山際 昔の子役は撮影所が珍しくて、楽しんで来てたんだけどね。段々その、それこそ金八先生(『3年B組金八先生』(1979年))の頃からね、名も無き生徒の子役が、一躍スターになっちゃった時期があって、子どもたちが、自分の劇団のことを「事務所」って呼ぶようになったんですよ。「電話かけます」「どこへ?」「事務所です」事務所って(爆) 僕はびっくりしちゃってね(笑) 

――ちょうどその時(『3年B組金八先生』時期)といえば、監督はその頃、池田一郎(隆慶一郎)さんと組んで『サンキュー先生』(1980年)をお撮りになられてた頃ですよね。あれは、当時やはり『熱中時代』(1978年)辺りからの教師ドラマが流行って、言い方は悪いのですが、便乗企画のような部分があったのだろうと思うのですが、後発作品として監督が目指していたものというのは、なんだったんでしょうか。

代替テキスト
『サンキュー先生』テロップ

山際 もちろん、金八先生なんかと違ってフィルムですね。フィルムなら、子どもの一番良い(演技の)ところを集めて編集できる。子どもの(演技の)ダメなところはカットできる、というメリットですね。だけど金八先生なんか観てると、フィルムの一番ダメなところは、フィルムはカメラ一台で1カットごとに撮るものだから、子どもたちの芝居をぶった切って撮らなくちゃいけない。だもんだから、それじゃとても良い演技が繋がらない。だから子どもたちの顔を撮るときに、西田(敏行)さんに、カメラの横に立っててもらってね。西田さんにも(カメラの後ろで)芝居してもらうという。ちゃんと西田さんの先生と子どもが、やりとりしているのをカメラが撮るという。西田さんは快くそれをやってくれた。昔からの日本映画は、悪しき伝統でね、目線って言ってね。助監督がこれ(拳)でやるんですよ。早撮りの方法なんけどね。もう、あれでいいことなんてないわけですよ。で、僕は必ず西田さんに、カメラの脇に立ってもらって演技してもらってた。『サンキュー先生』では、最後の打ち上げでは、西田さんが即興で、スタッフの一人一人を歌にして歌ってくれたんだけど、「山際監督、必ずカメラの傍にいろと言われた♪」だって(笑) そういうところで、子どもの表情とかリアルに撮れるってことでね。『サンキュー先生』で一話目、イジメの話があったんですけど、そこで西田さんの先生がね「誰がイジメをやったんだ!」「お前だろ!」なんて言ってね、別になんのストーリーもなくって、ただ子どもが「すいませんでした」って謝って、泣くっていうだけの話なんですけど、あれはね、TBSのプロデューサーが、とても褒めてくれました(註:『サンキュー先生』の放映局はテレビ朝日)。金八先生みたいに、スタジオで子どもたちを大勢集めて撮るというのではなく、フィルムならではで、リアルな子どもたちを捕まえる事が出来たっていう点で、褒められたんですけどね。あれは僕も好きな作品なんですよ。西田さんも非常に良く演ってくれて。だからスタジオ物の子ども番組とは、違った物をやろうという意識はありましたね。

『サンキュー先生』の西田敏行

徐々に変質していくテレビの世界。そんな中で山際監督が追い求めたテーマとは? ウルトラでも子ども向けでも変わらない「山際作品の本質」とは? 次回「山際永三インタビュー 第七夜 山際永三とミュシャと映画の狂気」さあみんなで読もう!

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