「その本」『戦後の詩―<現代>はどう表現されたか』は、1962年当時「日本現代詩人会」の理事を務めていた安西均氏が編著をした一冊。
社会思想社という出版社から、現代教養文庫というレーベルで出版された。
そこでは、厳選された140名の詩人・作家による、戦後文化史の数百の詩が、系統立てて、編纂されており、そこに懇切丁寧な安西氏の解説が入る構成。
後になって確認したところ、安西氏の前書きは、1962年の終戦記念日に書かれており、詩集は、金子光晴氏の『子供の徴兵検査の日に』から始まり、『わが子へ』『一九四五年八月十五日』『疎開ぐらしの中で』『復員と帰還と戦死と』『敗戦風俗』『死者と戦傷者と』『一九四九(昭和二)年ごろ』『朝鮮戦争を背景に』『島還る――一九五三年』『死の灰・原爆忌』『海外旅行から』『「荒地」グループから』『「時間」グループから』『「地球」グループから』『「歴程」グループから』『「日本未来派」グループから・その他から』『小説家の詩』『女性詩人群像』『家族・戦争の少年』『日本の南の土・北の土』『抒情詩の系譜』『憂愁の美学・残酷のイメージ』と、三章22セクションに別れている。そこで集められている詩の主も、神保光太郎、西條八十から、秋谷豊、鮎川信夫、伊藤信吉、井上靖、大岡信、岡本潤、川崎洋、岸田国士、北川冬彦、木原孝一、草野心平、釈沼空、高見順、高村光太郎、谷川雁、西脇順三郎、萩原朔太郎、堀口大学、堀辰雄、正岡子規、村野四郎、、山本太郎村岡花子といった詩人、文学者から始まって、浅沼稲次郎、麻生多賀吉、片山哲、白洲次郎、といった政治家や、東条英機、小津安二郎、溝口健二、三島由紀夫、サトウハチロー、金田一京助からトルーマン、マッカーサー、果てはナポレオンチャップリン、仁徳天皇昭和天皇からキリストに至るまで、様々な偉人や市政の詩人の言葉や詩を借りて、つまり、「戦後に書かれたか」という狭量な基準で集められたのではなく、古今東西の、「言葉」を拾い集め、「戦後」とはどんな瞬間であり、どんな時間であり、日本にとって「戦後」とはなんだったのかを、140人、7000篇に及ぶ「詩という言葉の紡ぎ」から、その時間への回答を導き出した、いわば現代のアカデミズムがしたり顔で使いこなす「キュレーション思想表現」の黎明期の完成形であり、究極形であるともいえる一冊であった。

さぁ俺は、なんとしてでも、これを手に入れなければいけない。
何が何でも、手に入れなければいけないのだと、意気込んで情報収集に取り掛かった。

しかし、そこでいくら調べても、出てくるのはこの本を欲しがる人達の、悲痛な願いの文章ばかりである。
それでもまだ、何人かの人達は、この本に辿り着けたようであり、そういった人々はやはり、歓喜の声をブログやネットにUPしている。

「戦後の詩 《現代はどう表現されたか》 安西均
これが読みたくて10年ほど探してるんだけど手に入らん。うーむ。誰か持ってないすかね」

という嘆きもあれば。

「去年の7月13日、時々通うようになった古本屋に、探してもらえないかと依頼した。その後。こんなメールが届いた。「念ずれば大抵の事は叶います。ひたすら思い続けるのも一法ですが、近似値から迫る手もあります。」
そして類似図書を購入したとの連絡。呼び水作戦らしい。
「古本屋は呪術的な職業なのでしょうか?」と記されていた。
これはもう委ねるしかないと、気長に待った。きっと見つかる気がした。
一年が経った先月、ついに入荷の知らせ。
お店に本を売りにきたおじさんの蔵書の中に埋もれていたと言う。
この知らせを受けたのが今年の7月13日。
メールの記録をよくよく見るとなんと注文した日からぴったり1年じゃないか。
古本屋は確かに、呪術的職業なのか。感激」

かめ設計室 3丁目通信

という文章も見かけた。

おそらく多分、古書のマニアの一騎当千のツワモノ達が、10年かけても手に入らなかったり、知己の古本屋に奔走してもらって一年かかったり、これはやはり、とてもじゃないが、古書マニアの片隅にもいない俺程度では、願ったところで、叶うものではないのだと、それはつくづく思い知らされた。

一応、一日かけて古書屋めぐりをしてみるが、音沙汰はないし、そんな古いマイナーな文庫本の、名前すら知らない古書屋も多い。
それでも締め切りは迫りくる
俺は仕方なく諦め、依頼の文章をビジネスと割り切って、手持ちの資料と知識だけで、なんとか書き散らし、編集に手渡した。
なんとも後味の悪い、やりきれない仕事の結末だった。
しかし、プロの物書きなんて仕事を続けていれば、そんな仕事だってあるものだ。
そういうこともあるんだよと、無理矢理自分自身を納得させていたところ、僕の嘆きを聞いた、SNS仲間の某氏が、とある古書専門入荷お報せサイトを教えてくれて、また、普段から仲の良い新潟のカリスマキャバ嬢(笑)沙夜ちゃんの必死の検索で、俺は一応(ビジネス上での必要性は、既になくなったとはいえ)その本との逢瀬を、その二つで待ちわびることになった。

それから二週間。
そう、たった二週間
「その本」は、俺の元に入荷報せが届けられた。

こんな偶然ってあるものなのか? こんな僥倖があっていいものなのか?
だって、ツワモノ揃いの古書マニア市場で、10年、1年待つ者がザラにいる稀本が、いきなり、二週間で見つかるなんてこと、あってよいものなのか?
それも、たった2千円という超激安特価の値段である。

俺か?
そりゃあもちろん、俺はすぐさま飛びついて、取り寄せの手続きを踏んださ。
そして今、俺の手元には「その本」が届き、首っ引きでのめり込むように、現代を築いた詩人たちの言葉を、安西氏が見事にキュレーションした礎の一冊の旅を、何週も何週も堪能している。

思えば『光の国から愛をこめて』の時代も、子ども時代の俺を地獄から救ってくれた、市川森一氏の名作『ふるさと地球を去る』を、なんとしてでも再現したかったのだが、そこで登場する怪獣のソフビが半世紀前のアンティーク当時品しかなく、それはヤフオクでは、10万、20万の激闘で手に入れるしかなかった現状だったのが、ふとしたことから、たった数千円で手に入れてしまったこともあったなぁと、今回は、それをしみじみ思い出させてくれた。

「縁の力」
それは必ず、この世界に満ちている。
オカルティックなことでも、スピリチュアルなことでもない。
「喉が引き裂かれるくらいに、呼び続けた声。魂が求める声」は、必ず届くのだ。必ず応えは届くのだ。

思えば「その本」が、仕事の原稿引渡し後になってはじめて、俺のところに届いたのも、それを仕事資料を読む感覚で読んではならないという、「縁」のもたらした、思し召しの結果なのかもしれない。

さぁ、俺は読むぞ、この本を。
既に何周したかわからないこの本を、これから先も、何十回でも。何百回でも。
そんな「縁の力」に、浸る日々があったって、いいじゃないか。そうだろう?

(筆者注・この記事の初出は2013年のSNSMixi日記であり、今ではこの文庫は、Amazonマーケティングプレイスであれば、1万円台から3万円程度で入手可能であるようだ)

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