『戦国自衛隊』映画公開時文庫表紙

『戦国自衛隊』誰も計算しなかった究極メディアミックス・漫画編

『戦国自衛隊』誰も計算しなかった究極メディアミックス・映画編

以前筆者はこのサイトで

『小松左京のSFセミナー』が遺したもの

こちらで、「日本のSF作家は、必ずそれぞれ個々に独立したジャンルを確立している」という主旨の発言をしたが、そういう意味では本著『戦国自衛隊』半村良氏のメインフィールドではない。
どちらかというと半村氏の場合、『石の血脈』のような伝奇譚か、『太陽の世界』のように、悠久の時間の流れの中で描かれる、大河長編SFの旗手という印象が深い。
そういう意味では確かに『戦国自衛隊』も、時間SFの佳作ではあるのだが、むしろ誰もが驚くのが、この「戦国時代に自衛隊を送り込む」という発想と、実際に文庫を手にして見た時の、その薄さだろう。
前者については、これは後者の理由とも絡むのであるが、とても独創的でありながら、誰もが思いついてしまえば書きたがるジャンルでもある。

角川文庫『戦国自衛隊』永井豪表紙版

近年の『ドラえもん』ではないが、人間だれしも、タイムマシンなりタイムトラベルなりを空想したときに思い描くのは、「過去の時代に行く時に、現代のアドバンテージをいかに生かすか」であることは、思考遊びの定番テーマである。
サラリーマンの居酒屋談義で行けば「俺たちの給料だって、このまま昭和30年代で同じ額をもらえるのであれば、重役クラスの生活ができるぜ」であったり、「今の(F1でもフィギュアスケートでも良いのだが)技術レベルのまま90年代初頭にタイムトラベルをすれば、絶対に優勝間違いなし」だったりもそうである。
それが極まると「刀と槍しかない中世に、鉄砲どころかマシンガンと対戦車ミサイルと、戦車とヘリコプターと軍艦を持ち込めば、どんな戦国の世でも圧勝だぜ」という話になる。
『ドラえもん』で、のび太がドラえもんの未来道具を借りれば、いつだってのび太は瞬時には、ジャイアンやスネ夫を驚愕させることが出来るのと同じリクツである。

作者の半村氏は『石の血脈』で伝奇SFというジャンルを打ち立てたが、この『戦国自衛隊』も、ある意味後の「架空戦記」というジャンルの元祖であるかもしれず、それだけこの作品が執筆された意義は大きいのである。
もっとも、架空戦記というジャンルに関しては、結局「架空としての着想の大きさ」と「物語内に収めるリアリズム」の舵取りが、クラスタ全体で上手く一般層に浸透しなかったためか、とてもニッチな「if」を描くことに終始するか、ディティールやリアリズム全無視の、ホラ吹き小説ジャンルになってしまった感は否めないが、それらが半村氏に責任があるわけでもなし、むしろ冒頭で述べたように、この小説は半村氏の作風の中では異端に属する作品に仕上がっているのだ。

この辺りの「一騎当千ジャンルSFにおける、メインフィールドと、一番メジャーになってしまった作品との温度差」でいうなれば、筒井康隆氏の『時をかける少女』と両雄なのであるが、どちらも角川映画化が密接に絡んでいる辺りは、面白いといえば、他人事であればのただし付きで、面白い現象と言えなくもない。

むしろ、先ほど書いた「前者が後者の理由に絡む」であるが、半村氏は、小説を書き終え、映画化もされた後の文章で、本作の尺の短さを、次のように語っている。

この作品が短編であったのには理由がある。本来ならもっと長い小説になるはずだったが、とにかく発表を急がねばならなくなったからだ。雑誌の編集部から急かされたわけではなく、この種の作品はアイディア本位で、早い者勝ちだと思ったからだ。もともとミステリーやSFにはそういう傾向が強く、まだ内容的に不十分だと思っても、一番乗りをした方がよかったのだ。

世界文化社 漫画版『戦国自衛隊』「ふたたびのあとがき」

確かに、映画化当時から、原作小説の勿体なさは指摘され続けていた。せっかく、最先端(当時)の現用兵器を大量に持ち込んで、戦国時代のど真ん中でドンパチをするという設定のSF小説なのに、誰もが期待するだろうアクションシーンの細かい演出はほとんど描かれず、タイムスリップから結末まで、文庫版でいうと200ページもないボリュームで完結してしまっているのである。

角川文庫『戦国自衛隊』文庫版永井豪挿絵より

誰もが、これではもったいないと思った。
上記した半村氏の事情を察しても、それでもやはり、これだけの題材を短編以上中編以下の尺で終わらせてしまうのはもったいない。そうした“共通の想い”が、おそらく日本SF史上初の、独立採算式メディアミックスを生み出した。
単純な、小説作品の映画化は過去から既に存在していたし、映画化に続いてテレビドラマ化、そして連動したコミカライズを、というような「予め計算されたメディアミックス」もまた、1973年から翌年にかけて、小松左京氏の『日本沈没』が、社会現象と共にやってみせた前例がある。
しかし、『戦国自衛隊』の場合は、それらのメディア化が、個々にスタンドアローンの企画で成り立っていて、コミカライズと映画化が、それぞれもちろん、原作小説では描き足りなかった「アクション」を中心に広げようとしただけではなく、1971年に執筆された小説に対する、スタンドアローンの漫画化であった1975年の漫画版を、1979年の映画化にあたっては、むしろコミカライズ版の漫画にしかなかった要素を、積極的に取り入れることによって、アクション映画としてのルックスを整えていくような流れが出来上がったのだ。

これは、歴代のメディアミックス戦略においても、あまり見られない順序と現象である。
なので、今回はまずは、漫画、映画の原作となった、半村氏の小説の方から、じりじりと語り始めてみたいと思う次第である(ここだけの話であるが、大河さんこの『戦国自衛隊』という作品が、小説も漫画版も映画版も好きすぎて、どうせ漫画版やシナリオ文庫版を語る際には、テンションが上がりまくってどうしようもない状態になるであろうことは容易に予想がつくので、今のうちはせめて冷静に筆を進めるべきと、己を戒めている次第である)。

半村氏の小説『戦国自衛隊』は、既に書いたように1971年に『月刊SFマガジン』で2回に分けて完成品が掲載されて、文庫化権はもちろん当初は早川書房にあったが、1978年に角川書店で改めて文庫化された経緯を持つ。
この時点で、おそらく当時の角川春樹氏の中では、既に始まっていた角川映画戦略の中で、ラインナップに銜える前提での引き抜きがあったのかもしれない。それぐらいに、そもそも『戦国自衛隊』は、文庫本一冊を占めるには分量が足りず、ハヤカワ文庫時代もまず最初は、『わがふるさとは黄泉の国』という、中編と短編を集めた一冊の中の一篇に過ぎない扱いでしかなかったのだ。
その文庫権を買い取った角川は、まずはビジュアル強化で、表紙とイラストに、当時漫画家として脂がのりまくってピーク時期に差し掛かっていた永井豪氏を起用。

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