逆に、小説版から漫画版へも忠実に描写されつつも、最終的に映画版では省かれた印象的なシーンや展開と言えば、まず筆頭に挙げられるのは、佐渡の金を巡っての、色部一族との海洋水上戦だろう。
確かにこのシーンは原作ではやはりページと描写は少ないが、漫画版では一つの山場としても描かれており、なにより原作小説と漫画では、せっかく近代武装を空・地・海と用意したにも関わらず、海の猛威、自衛隊の哨戒艇の活躍は、事実上ここでの色部一族戦だけであり、映画版ではそこがバッサリ切り落とされているだけではなく、序盤で矢野が率いる「反・伊庭派」のクーデターの拠点にされてしまったため、ほぼ「戦国時代VS自衛隊」としての見せ場は皆無なまま、小道具としては消えてしまうので、その辺りは映画化における改変としてはアリなのかもしれないが、その分を田辺筆漫画版で楽しむというのは有効なのかもしれない。
もう一つの、小説・漫画共通部分で、映画でスポイルされた印象的な展開は、伊庭達自衛隊員が、タイムスリップした岩場を離れる時、景虎の部下に頼んで、タイムスリップした海岸の岩場に祠を作らせる件であろう。
それは「時の神を祀る祠」として、やがては自衛隊員達が「とき衆」と呼ばれる伏線になり、「とき」は「土岐一族の末裔」という民衆の思い込みを呼び込み、伊庭達は上手くその都市伝説を逆利用して断ち回るのだが、そういった流れ自体を映画版は丸ごとカットしたためか、この「時の祠」エピソード自体がなくなっている。
同時に、SF的オチからいけば、最終的に豊臣秀吉に当たる存在になる、この段階では下僕の羽柴竹吉も、小説ではいつの間にか登場していた流れになっているが、漫画版では、越後に神兵現るの報せを知って、さえない商人から心機一転、伊庭達の部下にならんと、戦場で伊庭の窮地を救う機転の良さをまず描いてみせるなど、漫画版は巧みに「原作小説の急ぎ過ぎ」を、拾い集める作劇をも展開していた(むしろ竹吉の扱いに関しては、映画版が低すぎる)。
ここまでいろいろ細かく言及した上で総括するのであれば、漫画版は田辺タッチで、小説では描かれなかった究極の「近代兵器VS戦国」が、これでもかというレベルで描かれており、望月イズムの継承者たる肉感的な絵柄の生々しさも併せて、SFアクション漫画としては一級品の出来になっている(近年になって、続編が描かれる需要が発生するのも、当然ともいえる仕上がりである)。
宇宙人もロボットも、未来も出てこない「現代」と「過去」とが交錯するだけの視覚情報量が、これだけの「センスオブワンダー」を生み出し、かつて誰も描かなかった「『戦国武将と現用兵器』という、日本でしか生まれないビジュアル」が、映画よりも先に漫画というメディアで発信されたことは、とても意義深かった(というか、この漫画の4年後に、実写で映画にすること自体も、凄いと言えばこれだけ凄い邦画も珍しいのだが……)。
漫画版は、物語後半の「昭和的発想の政治が、戦国の世の人と人を繋げる」こそ描けなかったが、それを補って有り余る痛快娯楽アクション描写と、原作のSFテイストを最適なバランス感覚で残したさじ加減で、ある意味では師匠の『ワイルド7』をも超えた、田辺節雄の代表作といっても過言ではないだろう。
なんといっても、最終回のクライマックス。妙蓮寺の周りを固めた細川藤孝の軍勢に対し、メインキャラの一人でもあった木村が、64式小銃を構えながら見栄を切って叫ぶ
「戦国自衛隊の最期が どんなものか 見せてやろうぜ」
もちろん原作小説にはない、その「戦国自衛隊の」という主語の、最初にして最後の活用具合がタマラナクかっこいいのである。
「戦車とマシンガンとヘリコプターで、戦国の世で知将、名将を蹴散らして天下を取る」は、オトコノコであれば胸躍るシチュエーションであることは当たり前であるがゆえに、小説も漫画も映画も(どれも昭和版限定だが)この上なく、その最期までもが惚れ惚れするほどカッコイイのではあるが、それぞれの良さが微妙に座標を異なっていて、とにかくこの漫画版は、どこを切り取っても、絵になるカッコヨサが溢れんばかりで、ジエイタイを主役に据えつつ、右も左も関係なく、シビれる活劇の魅力にあふれているのであることは間違いがない。