伊勢海老乗せラーメン二郎カレーがけ
なんだかんだで映画もラスト。
原作では、伊庭達自衛隊を織田信長に見立てた時、明智光秀に相当したのが細川藤孝という構造だったが、映画版はそこで、徹底した戦国時代の人々の政治的人間ドラマを空洞化させたため(当たり前だ、これ以上、上からクリームシチューをかけられてたまるものか)、登場人物は絞られ、明智光秀役回りそのものを、景虎が務めることになるのだが。
要するに、難しい話を分かりやすくいうと、この時点でこの「廃寺に集まった残存自衛隊員が、追い詰められた挙句に囲まれて、(原作では伊庭は、己が織田信長だったのだと気づきながら自決した)自分達の小銃や弓矢で、ハチの巣にされて死んでいくラスト」は、要するにこれの「見立て元」は、原作や漫画が目指した「本能寺の変の再現」ではなく、『明日に向かって撃て!』(原題: Butch Cassidy and the Sundance Kid 1969年)ラストシーンの再現だったのねと、この映画がビデオソフトになる、映画青年になるころにようやく気付いた大河さん。
というわけで、なんだかんだと「『戦国自衛隊』映画版について、某大全ムックでは語られていなかった逸話と、個人的な思い入れだけを語ればいいや」と思って書き始めた文章が、結果的に、大河さんの歴代ここの文章で最長クラスになってしまったという、本当に、僕の人生はどんだけこの映画でできているんだよと、もはや自分ではツッコむ気すら起きないわけなんですが。
もうね、この映画を観て「自衛隊とは憲法に照らし合わせて……」とか、考える奴はバカだから! 原作版の小説を読んで、とかならいざしらず、本当にこの映画を観て、憲法談義を始めるのであれば、ソイツ頭おかしいから! この映画を観た上で出てくるのは憲法じゃなくてむしろ「拳法っぽい精神論」とか「そっち系」だから!
だからね。「歴史は(時間は)なにをさせようというのだろう」じゃなくて、むしろ「角川春樹は何をさせたかったのだろう」とか「千葉真一が何をしたかったのかは、嫌というほど理解したので、今後は自重してください」とか、そういうメタ的なテーマっていうか、人生で大事なことを、映画に学んだと言えば聞こえはいいけれど、どう良い方向で解釈しても、反面教師だよねこれっていう、そういうアレとかソレとかが、伊勢海老乗せラーメン二郎カレーがけ的な映画の中に、詰め込もうとして詰め込み切れないはずの物が、結局全部詰め込まれてるっていう意味で、この作品はSFなんじゃなかろうかっていう話です。
そういうわけなんで、大河さんはこの映画版が好きすぎて、なんかついこないだ(中年時間では10年前までは「ついこないだ」にカウントされます)作られた、平成映画版とかは、好き嫌い以前に「観る理由がないので観ない」という、漢らしい決断をした大河さん。
シメの台詞はこれですよ、これこれ!
「平成リメイク版を観たって何になる……。あんなぬるま湯につかったリメイク映画を観て何になる……千葉真一がいない自衛隊が戦国時代にタイムスリップして何になるんだ! そんなリメイク版よりも、永遠に昭和版映画のDVDを観て過ごそうと思わないか! 思うまま本心のままに生きる千葉真一を見つめて、感涙にむせぼうと思わないか! この作品ではそれが出来る! この映画が写されている空間が男の生きる場所だと思わないか!」