オマケに(無駄に有名なのが)「宇宙蛍」を捕まえようとするシーン。「宇宙蛍」自体は、まぁ正体は原子力エンジンの放射性廃棄物とのことで(冷静に3.11以降の日本の現状を考えると笑えないけど)設定的にはアリだとしても、その宇宙蛍を捕まえようとする、宇宙お嬢様と宇宙暴走族はなんと「それっぽい」酸素マスク一つで、首から下は普段着のまま宇宙空間に飛び出したのだ!
イマドキであればむしろ「人体の周囲を膜のように包むフィールドシステム」とかなんとか、それらしき設定を挟み込めるのであろうが、何しろこっちは既にその作品中で「アロハシャツに蛇柄スーツのチンピラヤクザ」だの「日本警察庁の白バイ警官制服そのままの、宇宙パトロール隊員」だのを散々見せられた後なのだからして、そんな高度なハードSF設定等が入り込む余地なぞないと、分かりきって画面を眺めているのである。
完成作品から、いろいろヤバい物が伝わってくる
しかも、そこで宇宙蛍狩りをする馬鹿達は、キャラ自体が馬鹿なのか、役者が馬鹿なのか、深作欣二監督も(SFにはという意味で)馬鹿なのか、東映自体が馬鹿の佃煮なのか、おそらく「全部」なのであろうが、全員酸素マスクを付けているくせして、誰一人として、酸素ボンベを背負っていないのである!
酸素ボンベ無しの酸素マスク! イマドキであればむしろ(以下6行くり返し)。
さらに、宇宙蛍を捕まえようと頑張るメンバー全員が、当時子どもだった筆者から見ても、明らかに「ピアノ線で釣られてる感」満載で演技をするのである。確かに操演は特撮の基本であり、当時からごく当たり前の特撮技法として、筆者のような特撮好きには(子どもにも)既知のテクニックではあった。
しかし、まぁ、なんというか(笑)頑張ってるのは分かるが、どう観てもコント状態。ここまで「あからさま過ぎる」のを、しかも映画館の大スクリーンで見るというのは、『ゴジラ対メガロ』(1973年)での、ジェットジャガー巨大化シーン以来のやるせなさ。
むしろ「あっち」はまだ「これゴジラ映画だしなぁ」で、観ている側も自己弁護できたが「こっち」は「あの『スター・ウォーズ』には負けへんでぇ!」という気概がある分、やるせなさは70%増し(当社比)で襲い掛かってきた『宇宙からのメッセージ』。
特撮は頑張ってるんだよ! 特撮はさァ!
そしてこの手のジャンルの映画の、大きな評価ポイントになる特撮シーン。 本作の特撮監督・矢島信男が、後年顔を会わせた関係者全員に自慢し続けたという「本作の特撮は、1978年アカデミー賞の特殊効果賞にノミネートされた」(これは事実)と矢島曰く「本家『スター・ウォーズ』のILMスタッフが、目を見張りながら『これでは僕達の実力では、到底かなわない』とコメントしたという、擬似モーションコントロールカメラによる、宇宙船の突入シーン」であるが、確かにここは見栄えもするし出来は良い。
けどまぁ、そこはそれ、相手はアメリカ人なのだからして、そういう手放しな褒め言葉は、幼稚園児が描いてきた図画に、大人が「上手く描けてまちゅねぇ」と褒めるレベルで話半分に、リップサービスだと受け取るのが普通であろうし、実際そうなのだろうが、我等が矢島監督は「その逸話」を生涯自慢し続けたそうである。うん、これ多分「イイ話」だよね(笑)
というか、むしろこの作品の特撮で、褒めるに値するシーンは「そこ」しかないのだ。 その他は「地面に向かって垂直に降下してきた宇宙船が、地面激突寸前で水平飛行に戻り、その瞬間、土煙がぶわっと沸き立つ」とか「敵戦闘機は必ず三機編隊で攻撃」とか「手前から奥に向かって地割れが起きて、中から炎が吹き上がる」とか「『スター・ウォーズ』のOPのスター・デストロイヤー進撃のように、画面手前から現れた巨大宇宙戦艦が煽りアングルで画面の向こうへ進む」だのだのといった、その後の矢島特撮を知る者にとっては、もはやどれもこれも「あるあるあるある」の既視感が満載で、むしろ「そうか! ここからだったのか!」と、文化発祥起源を見つけるような思いに駆られ、今の時代に改めて観返してみると、無意味で感動的な「はじまりとの出会い」に満ち溢れている『宇宙からのメッセージ』。
そしてクライマックス。
ガバナス本拠地で、敵味方入り乱れてのお約束の大乱闘(ずっと悪い予感はしていたが、「ようやく」というか「やっぱり」というか、王女のはずの志穂美悦子まで参戦)の末、東映時代劇が常にそうであるように、東映実録ヤクザ路線映画が必ずそうであるように「この手の映画(この場合、東映的には決してソレは、SF活劇とイコールではない)」でクライマックスを飾るのは、この配役の場合はもちろん、千葉真一と成田三樹夫による、親玉一騎打ち決戦チャンバラである。
確かに本家『スター・ウォーズ』は、ルーク・スカイウォーカーの衣装に、柔道着の意匠を取り入れてみたり、ライトセーバーという電光刀による剣戟も、欧米のフェンシングというよりは、日本古来の剣道に近い殺陣で演出してみせたり、東洋的嗜好は強く打ち出されていたが、それをどうも東映は余計な方向で勘違いして「なんやて? チャンバラならうち(東映)のお家芸ではないかい! チャンバラクライマックスで、アメ公になんぞに負ける道理もないわ!」とばかりに、正義側と悪側の、双方の「アタマ」である千葉と成田が、それぞれに、懇親のアクションと太刀裁きで、サシでガチの勝負殺陣を展開するのだ。