東野圭吾デビュー作『放課後』

まずは、筆者の「東野圭吾観」については、こちらの『表層的東野圭吾論概略』をお読みください。

この、東野圭吾氏のデビュー作を初めて読んだ時は「うんうん、よくも悪くも80年前後の乱歩賞作品っぽいねぇ (実際、本作は1985年の江戸川乱歩賞を受賞している)」というのが第一印象だった。
江戸川乱歩賞受賞作品でいえば、栗本薫氏の『ぼくらの時代』(1978年)とか、小峰元氏の『アルキメデスは手を汚さない』(1973年)とかの、あの辺ね。

赤川次郎登場前夜、日本ミステリー文壇全体で模索していた。若い読者層を開拓するべくの「ワカモノ(ここあえてカタカナね)群像青春推理ジャンル」の王道。
いや、この東野圭吾氏作『放課後』の場合、一応主人公は教師なのだけど。
読んでいて、時代を感じて微笑ましかったのは「殺人事件発生」という「普通に生きていれば人生に一度あるかないかの一大事」と「推理小説世界では、あくまで謎の提示と、発端でしかすぎない手続き」との距離感が、確かに80年代初期までの作風っぽいなぁというニヤニヤ感。

『ぼくらの~』や『アルキメデス~』がそうだったように、この作品でも、学校を舞台に殺人事件が起きたというのに、登場人物も、一応はショックを受ける描写はあるにせよ、すぐさま立ち直り、謎解き推理に没頭しはじめるどころか、次の日ともなればもう、学校も周囲も、なにごともなかったかのような日常描写へと、すぐに戻っているのだ。

この辺の「冷静に考えるとありえなさ」そのものが、80年代型現代推理小説が、当時有形・無形で抱えていた「推理フィクションのリアリズムの限界」だったんだろう(その辺のリアリズムに関しては、東野氏がデビューから最新作『新参者』までで、もっとも成長した、文学者としての部分かもしれない)。

ちなみに、本作が語られるときには必ずと言っていいほど、巷でアレコレ取り沙汰されていて、批判の対象にもなっているのが、本作における「全ての発端となる、犯人の動機」だが、ここだけは、筆者は絶対的に東野氏を支持しようと思う。

確かに、連続殺人事件の引き金としてはその動機は弱く、長編推理小説を支える屋台骨としては、パンチ不足なところは否めないが、そういう「殺人の動機は、重たくて深いものであるほうが、推理小説を支える要素としては高尚」的な、固定観念的発想と視点こそが、純文学コンプレックスにまみれた、旧態然本格推理界的偏見に満ちたものである。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事