ビジュアルイメージ等は後の漫画家・丸尾末広氏(本作の美術面を担当した花輪和一氏のガロ的・アングラ漫画的な直系にある)などが継承した部分もあるが、大正ロマン風な、それでいて猟奇・狂気的な様式美の中で織りなす物語は、市川森一氏が、2003年の日大講演で遺言のように提唱した「夢と現実の中で、自分自身に『もう一つのドラマ』を与える」を実践せしめつつ、その講演で市川氏が「一番面白くない物」として挙げた「自分探し」を、最終的にトコトン突き詰め求めているという作品に仕上がっている。
しかし、そこで究極の執念を伴って描かれる「自己探求」は、観る者の中にあるソレを喚起させる。
喚起させるだけしておきながら、寺山氏の「自分探し」は、「過去と現在の自分・両方の解放」へ向けて仕掛けが施されていくが、その唐突さは究極のカタルシスでもあり、エクスタシーでもある。

それは他方では、当時寺山氏が率いる天井桟敷と両雄にあった、唐十郎氏の紅テント劇場が、そこでの演目のクライマックスにおいて、背景が落ちて、新宿花園神社の風景へとメタ的に解放されていく終幕のメカニズムと一致する。

代替テキスト

唐氏は『仮面の墓場』で山際永三監督と組んで、芝居にのめり込む主人公(演ずるは唐氏本人)が、スクリーンの向こう側へ入り込み、そのまま消えていくというラストを生み出したが、メディアが変われば手法が変わるように、寺山氏の映画の場合は、逆にそのスクリーンの中から我々の現実に揺さぶりをかけてくる。

夢か幻か、狂気か現実か、振り回され彷徨うしかなかった我々観客は、寺山プランニングによる、高度なモンタージュ計算によって、最後、水を浴びせかけられるように「1974年の新宿の雑踏」へ放り出されて物語は幕を閉じる。
そして、その「1974年の新宿」を舞台にして、ほぼ同時期に市川森一氏・工藤栄一監督の『傷だらけの天使』(1974年)が、容赦のない現実の狭間で足掻く青春を、ブラウン管に刻み込み始めるのが、この時代の「映画とテレビの拮抗」なのであった。

余談ではあるが、劇中で歪んだエロティシズムの象徴として描かれる「空気女(演ずるは春川ますみ!)」の着ぐるみ(?)造形は、この時代の『ウルトラマン』(1966年)以降の怪獣ブームで怪獣造形の頂点に達していた、高山良策氏が担当していたりもする。

代替テキスト

そう、『田園に死す』と『ウルトラマン』『傷だらけの天使』は、意外なところで様々に地続きであり、今回の監督の寺山修司氏も、俳優・演劇人としてだけではなく、歌人・作家・戯曲化としても様々な顔を持っていた。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事