一方で、竹内義和、開田裕治諸氏が開設した特撮研究集団コロッサスが、同人誌扱いで1979年に『大特撮 日本特撮映画史』を編纂。

かつて誰も、系統立てて語ることがなかった特撮映画というカテゴリを、大真面目に、しかも日本の映画史に存在する特撮映画は(この定義がまた、後々をややこしくしたのだが)一本残らず抽出し、資料を整理整頓し、体系的にまとめるという偉業を、いきなりこれ一冊で成し遂げてしまったのだ。
それゆえに『大特撮』は瞬間的に伝説になり、『ファンタスティックコレクション』と『大特撮』は、80年代から延々と、特撮マニアにとっての経典となる位置づけで君臨し続けたのである。

しかし、当時まだ市場の維持さえ不確定だった、前人未到の開拓者の先人達には申し訳ないが、そうした偉業は原理主義を生み、やがてそれはカルトとなる。
例えるなら『大特撮』。
『大特撮』の成した偉業は記したとおりだが、まだ「特撮映画」というカテゴリ概念自体があいまいだったため、この書は多くの誤解と認識を、特撮映画ファン初心者に植え付けてしまった。
確かに、特撮映画だけを映画史から抽出して論ずる行為そのものが前例がなかったのだから仕方がないが、通常人が「特撮映画とは」と問われてパッと思いつく、怪獣映画や『日本沈没』(1973年)等の「分かりやすい例」だけならいざ知らず、本書では、特殊技術を用いて撮影されたシーンがある映画の全てを網羅してしまったのだ。また、それだけではなく、ここが一番、本書の映画史研究での扱いに困る部分であるのだが、本書は清々しいほどに徹底して、そこでとりあげた映画作品の「特殊技術のクオリティ基準」だけで映画単位を評価するレギュレーションなのである。
そもそも「特撮」とは「特殊技術撮影」の略であり、それはいわゆる「逆転撮影」や「二重露光」と同じく技術論畑の用語なのである。それを前提にすれば「全ての邦画史を、特殊撮影の技術水準で判断する」をやってしまうことが、どれだけ痛快であると同時に、暴挙であるかもお分かりいただけると思う。

そうなると、いかに映画自体が名作でも、そもそも特殊撮影の技術「だけ」が低水準だと、本書では酷評されて駄作認定を受ける。逆を言えば、特殊撮影の技術さえ高ければ、映画自体が凡作でも、絶賛の嵐で称える文章が(また、コロッサスの面々の筆捌きのキレ味が鋭すぎるのだ)そこに書き記されるのである。
その結果、絶賛されていた『虹男』なる、大映の1949年の作品が、フィルムが現存していなかったため、他の東宝怪獣映画のように名画座で観ることも叶わず、90年代になってようやくレーザーディスクソフトとして誰もが観れるようになったとき、待ちわびた数多くの「『大特撮』原理主義者」達は、がっくりと肩を落としたものだった。

その逆もしかり。
『日本沈没』等はその筆頭であるが、映画としては力作、名作の域に入っておきながら、こと特撮シーンのクオリティが低いという識別をされてしまえば、映画そのもの自体の価値まで否定されてしまう勢いで書かれてしまい、『新幹線大爆破』(1975年)等に至っては、映画自体は娯楽大作としては充分な出来栄えであり、そもそも特撮を見せ場に持ってくるプランニングではなかった映画であるにもかかわらず、拠無い事情で導入した特撮シーンの稚拙さを以てして、さも映画全体が失敗作であるかのような印象を与える評価に落ち着いている。
中には『夜叉が池』(1979年)評価のように、特撮も本編も素晴らしい出来ゆえに、埋もれつつあった佳作映画にスポットを当てるという効能もあった書籍だが、この書籍が当時の特撮ファンに植え付けてしまった価値観の功罪は共に大きく、以降四半世紀近く、特撮映画というジャンルの歴史の再評価や再点検がされなかったという現実を生んだ。

一方で『ファンタスティックコレクション(以下・『ファンコレ』)』の側も、ウルトラ評論黎明期であるゆえか、群雄割拠のクリエイター達を、「直球作品の円谷一金城哲夫」と「変化球作品の実相寺昭雄佐々木守」という、あまりにもざっくりとし過ぎた評価へ総論を着地させてしまったという罪は大きい。
実際には、初期ウルトラで直球的作品は、飯島敏宏、山田正弘、野長瀬三摩地諸氏の作品が多いのだが、そういった諸氏にスポットが当たるのは、こちらも90年代まで待たねばならなかった。
また『ファンコレ』執筆陣が、概ねの世代論として、『ウルトラQ』(1966年)『ウルトラマン』『ウルトラセブン』(1967年)三作の、いわゆる「第一期ウルトラ」を原体験に持ったゆえか、それらを過剰に評価し過ぎる一方で、『帰ってきたウルトラマン』(1971年)以降の、いわゆる「第二期ウルトラ」を「幼児向けの子ども騙し的な作品群」と切って捨ててしまった論調は、世代論としては理解が出来、一つの分かりやすいゾーニングとしては有効ではあったが、やはり暴論過ぎた感は否めない。
『ファンコレ』の第二期批判は、センスオブワンダーという錦の御旗の下では有効なのだが、第二期の初期を支えた上原正三・市川森一両氏の文芸技能や、山際永三、真船禎諸氏の映像センス等を一切考慮しない頑さで論が構築されてしまったため、全体像としては「当時としては革新的な書籍であったが、今の目で読んでしまうといささか偏見に過ぎる」としか言いようがない。
ここでの「第一期世代論者による、第二期ウルトラ全否定」が、この時点でカリスマになってしまい、こちらも経典化してしまったことで、自らの原体験に第二期ウルトラ作品を持つ「少し遅れた層」からはかなりの反感を買ってしまったようで、その業は根深く、「第一期ファンVS第二期ファン」の図式は、近年になって第二期ウルトラの再評価がされるようになってなお、未だに散見される対立構図であったりもする。

『ゴジラ』や『ウルトラマン』が「子ども向けの幼稚なコンテンツ」なのか「大人の鑑賞に堪えうる娯楽」なのか。実は筆者はもう30年近くも、そこへの興味を失っている。
上でも書いたが、特撮はあくまで技術概念であるので、そこをことさら隔離して持ち上げる必要も貶める必要もないのではないかとは思う。
「大人の鑑賞に堪えうるかどうか」は本末転倒な問題であり、全ての娯楽は「老若男女、誰が観ても面白い」を目指せばいいのだと、個人的には思う。

今回紹介したいずれの書も、21世紀の価値観においては「過去の価値基準」としての参考以上も以下も存在価値がないかもしれないが、ネットもサブカル雑誌もなかったあの時代、怪獣に胸踊らされた元子ども達にとっては、初めての灯台であり、道しるべであったことだけは確かである。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事