筆者も敬愛する大林宣彦監督は、1977年に『HOUSE』で鮮烈な商業映画デビューを飾った。その後は、一方で『転校生』(1982年)のような、自主映画風ATG系映画も撮りながら、もう一方で『ねらわれた学園』(1981年)等のビッグバジェット映画も撮っていたのだが、ターニングポイントになったのが、後年映画マニアから「尾道三部作」と呼ばれるようになった名作の一本『時をかける少女』(1983年)であったことは間違いないであろう。

『HOUSE』
『HOUSE』予告編
『ねらわれた学園』
『ねらわれた学園』予告編
『時をかける少女』

もとより、映画界における大林監督の手腕は「CM演出で磨かれたセンスと技量で、目の前の少女の、今しかない瞬間を、鮮やかにフィルムに焼き付ける」才能が突出していた。
その技量と才能が、原田知世(当時16歳)という、一人の少女に注ぎ込まれたのが『時をかける少女』なのだが、前回書いた山本監督の『ラ・ブーム』現象言及が1982年であることを踏まえると、この時期既に、アンダーグラウンドでも、市場の表舞台でも「ロリコン」というクラスタが、市民権を得ていた(気になっていた)ことが分かる。

『時をかける少女』は、映画としてはもちろん一級品ではあるのだが、加熱して暴走し始めたロリコンオタク達は、過剰なまでに原田知世を持ち上げて、追いかけた。
特に、当時のアニメ系のオタクやマニア達が、こぞって「『時かけ』の知世ちゃん」にのめり込んで、それは一部のオタク系のプロクリエイター達まで参戦し、非常に歪んだ空気を作り上げていた。
その「原田知世おっかけプロクリエイター」の一人が、おそらく当時のアニメブームの中で、一番「アニメパロディ漫画家」として筆頭だった、ゆうきまさみ氏であったことも、本論と併せて考えて頂けると意義が感じてもらえると思う(ちなみに、当時の知世現象に対して、同業者の漫画家の中でも、いしかわじゅん氏などは後になって「(引用者註・原田知世は)鼻が大きな子どもにしか見えない」とコメントしたことが、この時のブームの客観性を象徴している)。

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