水島新司氏は、いや、梶原一騎氏も、野球を愛していたのだ。
一球入魂、ここに全てがあると思い、青春と人生の全てを注ぎ込んでなお、負けても「次」があり、「終わるわけではない」常に「次などない」と己が胸に言い聞かせながらも、人生には必ず明日がやってきて、きっとそれは素晴らしいのだと。
巨人をつぶすのが俺の夢だと語りながらも巨人に入団させられ、サムライは己を知る者のために死すと、背番号「4」を背負い、数々の魔球を投げつつも、ライバルたちに打たれ、また立ち上がり、その果てに、愛する巨人を優勝させたいがために、自らの命と引き換えに、マウンド上で死んでいった番場蛮。
獣医学者になるのが夢で、女性である自分にプロは無理だと語りながらもメッツに入団させられ。二軍の牢名主にしごかれ締め上げられ、それでも女性という意味ではない「プロ野球でただ一人」を目指すために、その牢名主と共に夢を駆けたドリームボールを、毀誉褒貶の果てにその人に打たれ、それでも翌日に笑顔でグラウンドを走った水原勇気。
彼らの果てに僕たちの今が、現在のプロ野球が存在すると言ってしまっては、現実とフィクションを混同し過ぎてしまうわけだが、だがしかし、僕が泣いたのは。番場が、水原が、命を懸けたマウンドは、現実の王や長嶋、田淵や野村が人生を懸けたグラウンドは、全てはあの「一枚の写真」から始まったと言っても過言ではないからなのだ。
『野球狂の詩』最終ページ。大コマで勇気が「岩田さんわたし野球大すき!」と叫び、メッツの全メンバーがベンチに陣取る画で終る。
そこで描かれた全てのメッツのメンバーの、ひとりひとりに過去に主役話があり、主人公を務めた逸話があり、全員が野球狂であった。
僕は恥ずかしい話だが、ここ20年のプロ野球を殆ど見ていない。先日たまたまネット動画でホエールズ対スワローズの試合を見かけたが、どちらのチームがどっちのユニフォームなのかの見分けもつかなかったレベルである。
それでも思う。今2022年の今もまだ、野球狂達でグラウンドは埋め尽くされているのだと。
45年前。あの頃確かに僕は、野球少年だった。