『ナイチンゲールの沈黙(上下)』
理系畑の海堂氏だが、しかしこの文章力やディティール描写能力は、下手げな文系作家よりも、観察力も描写力もすげぇなぁと『チーム・バチスタの栄光』を読んでいる間中、ずっと感心していたんだけど、シリーズ2作目の本書を読んでちょっと、ごめんその好評価は撤回するわ。
この人「医療(厚生省や医療関係含)の世界の外に住む普通の人間」を書かせたらダメだわ(笑)
今回は、物語のメインに絡んでくる役割としては、シリーズ初めての「病院の外」の住民となる「伝説の歌姫歌手と、そのマネージャー」が登場したんだけど、その二人のキャラや、その間で交わされる会話がこれがまた、読んでいて赤面してしまうほどに、陳腐で時代遅れで、自己完結で安っぽい「オシャレで粋(笑)」に満ちているのだ。
ちょっとこれには、苦笑して開いた口が塞がらなかった。
また、物語の鍵となる「ヒロイン看護師の超能力」は、近年注目が集まっている「共感覚」の延長上ということで、柚月裕子氏『臨床真理』の他、T・ジェファーソン・パーカーの『レッド・ボイス』などでも、主題材として取り扱われているが、本作における扱いとしては、ちょっとご都合主義的なガジェットとして、SF・オカルト色が強くなりすぎてしまって、構成上の使い勝手の良さと、目新しい玩具のような視点だけで、小説の核の部分にもちこまれてしまってるなぁと思わざるを得ない。
そこが推理小説としての評価の分かれ目か。
でも、本作で作者が追い求めたかったロマンチシズムは凄くよく分かりやすい。
嫌いじゃない、嫌いじゃないんだけど……。
海堂氏って、実はきっと(『ジェネラル・ルージュの凱旋』や『イノセントゲリラの祝祭』なんかでの、会議論戦でも嗅ぎとれたんだけど)そこで熱く主張される、頑なで青臭い医療現状への理想論とか、甘くて切ないロマンチシズムとか、医療に従事する人間賛歌とかが大好きで、しかも「それをアジる自分」にちょっと、酔っちゃうきらいがある人なんだな。
もしくは(ここは海堂論の基礎にしなければいけないと注視してるんだけど)海堂氏が現役の勤務医として、もちろん当然、現在の医療体制のみならず、学閥問題や医局制度といった「一般作家なら当然のように作品内で、社会モラル的に批判対象にするだろう、医療界にはびこる悪しき現実要素」に対しては、立場上、全否定も痛烈批判もできない、腰砕け的な(作家としてではない)「勤務医としての立場」も、そこでは差し挟まっているのだろうと思う。
そこでのジレンマ、ストレスゆえか、だからこそ、フィクションの世界でくらいでは、のびのび自由な世界の住人に思いを馳せたいからか、どちらにしてもその反動で、海堂式の青臭く陳腐で安いロマンチシズムが、本作の隅々にまで流れていることは、否定のしようはない。
酷い言いようをしちゃったけど、個人的には(あくまで個人的には)実はその、陳腐で安いロマン志向も含めて、筆者的には本作『ナイチンゲールの沈黙』は、ぶっちゃけ、シリーズの中では一番好きかもしれない。
その(作品ではなく作者の)根底に流れる「いくら医者だ作家だと権威になっても、男ってのはオトコノコという、子どもなんだねぇ」を含み、本作は、本当に(男性から見た時には)愛すべき作品に仕上がっている。
もっとも、客観的評価としては、失敗作の烙印を押さざるをえないかねぇ……。
(以下、『ナイチンゲールの沈黙』書評に関しては、『『ナイチンゲールの沈黙』は、果たして駄作だったのか?』にて)