『ジェネラル・ルージュの凱旋(上下)』

本作で主役を務める救急医療センター部長・速水晃一(映像作品で演ずるは、映画版では堺雅人、テレビ版では西島秀俊)というキャラは、平行物語の『ナイチンゲールの沈黙』での、各所でのチョイ役での登場の方が、シャープに描けていたという謎。

設定上では、『ナイチンゲール~』と本作は、同一の時間軸の上で、同じ病院内で起きた別個の事件を、ザッピングで二つの視点で描くというのが、この2作品共有のコンセプト。
なので二作品で共通するシーンも多々あり、それらがそれぞれの作品視点で描かれるという趣向が、各所に凝らしてある。
なのに速水というキャラが、同じシーンもある『ナイチンゲール~』では、オイシクて魅力的で、印象深くてシャープなキャラに見えるのに、主役を張るべき『ジェネラル・ルージュ~』の方になると、なぜか、そのキャラの輝きが褪せるという、不思議な現象が起きている。

つまり海堂氏は、もともと文系ではないせいからか、オイシイ設定や人格のキャラクターを、ロジックではなく、センスのみで、ワンセンテンスやワンシーンで印象的に使うまではできても、その魅力や人物造形を、長編全体の構造リンクにまで広げて、中核的役割で、物語の主軸として使いこなす文章スキルには欠けていて(そこは白鳥に関しても同じだが)すごくオイシイはずのキャラ設定が、トータルデザイン構成の、必要上の枠の中でのドラマやダイアローグ劇では、逆に生かしきれないという、致命的弱点を抱えているということ。

実は、それはそれで「実に面白い(by福山雅治)」キャラを産んでいるのではある。
映画版やドラマ版でしか速水というキャラを見ていない方には、意外かもしれないが、原作においての速水は、その過激な言動や自己中に見える行動こそ健在ではあるが、基本的に、主人公の田口とは学生時代からの旧友であり、親交も厚く仲が良く、互いに軽口を叩き合いながらも、共に誠実に医療という世界に向き合うという、愛嬌溢れた、愛すべきキャラクターを目指した描き方をされているのだ。
もちろん、上で書いたように海堂氏の筆力はそれを100%活かしきれていないが、海堂氏のそのビジョンがあればこそ、小説版唯一のミステリー的要素となる「速水収賄容疑の告発書を、いったい誰が書いたのか」という部分において、「それこそが、速水の切り札だったのだ」というロジックが成り立つのだ。

ここまでくれば、なぜ映画版・ドラマ版が、速水というキャラを「主人公視点から見た時には、批判したくなるエゴイストに見える」立ち位置に変更し、わざわざ取ってつけたように(というか取ってつけて)原作にはない殺人事件やらミステリー要素を付け足したのか、お分かりだろう。
そもそもの原作版『ジェネラル・ルージュの凱旋』をミステリーとして成立させる、唯一の必要条件は、その速水というキャラの微妙な構築にあり、そしてまた、速水というキャラは「海堂氏ならでは」のバランスで構築されたばかりか、その「海堂氏ならではバランス」が、海堂氏自身の筆力の低さから、理解されにくいレベルで完成してしまったからだ。

それを与えられた「作劇のプロ達」たる、映画やドラマのスタッフが、共通したバイアスで、速水というキャラや全体構造に変更を仕掛けたのは仕方ない。
確かに、既存の作劇屋からしてみれば、速水というキャラは「ナルシストでエゴイストな言動と、誠実な仕事ぶりが相反する謎の存在」として描いた方が、いかにもな面白さを目指せるし、活かしやすい。
さらに言うなれば、一応『チーム・バチスタの栄光』という、殺人ミステリー作品の続編なのだから、呼び水としてはやはり殺人事件展開は必須で、それをオリジナル要素として本作に組み込むのであれば「犯人が速水か? 少なくとも事件に絡んでいるのか?」的な引きは絶対外せない。
だとすると、自然と「田口&白鳥」と速水の距離は、原作のような、厚い信頼関係と旧知の友情という絆ではなく、猜疑心と懐疑を抱いて向き合う、サスペンスフルな関係を目指す方が面白いということになる。
要は、映画版、テレビ版における変更点は「原作が、ミステリー作品の続編なのに、ミステリーになっていないので困る」「速水というキャラは、今までにないタイプのキャラクター像への、可能性を秘めていたのだが、海堂氏の筆力がそれを完成させるに至るまで届かず、結果、映像化作品では、いかにもありがちなステレオタイプキャラにせざるをえない」これらが主原因となって、共通していたというわけである。

だがしかし、筆者の個人的な感想を差し挟ませていただくなら、物語ラスト、東城大学病院を去る速水と、看護師長・花房が手を繋ぎあうシーンは「海堂流の安っぽいロマンチシズム」を前提として、大好きなラストでもある。
あのシーンで万感迫る想いは、小説版ならではの「速水の愛すべき数々の描写」がないと成り立たないような気がするのだ。
あと、これは余談だが、映画版『ジェネラル・ルージュの凱旋』クライマックス。
「報道ヘリは飛ぶのに、どうしてドクター・ヘリは飛ばないの!」を、叫ぶ田口(原作では、速水の魂の慟哭だったこの台詞を、田口に言わせてしまう映画版……)の前に、飛来するドクター・ヘリの大群という描写は、それが最後までかなえられなかった、原作版・速見の苦汁を知るファンであればこそ、言いようのない感動を禁じえないのではないだろうか。

余談はさておき本論に戻るが、海堂氏は本書をみる限りにおいては、『チーム・バチスタの栄光』は、最初からそもそも「新しい推理小説を書こう」というモチベーションで、医療を題材にとったのではなく、あくまで、自分が医療の現場で感じた、書きたいこと、訴えたいことを書き記す方便として、ミステリーというジャンルを、仮に借りただけであるということが、三作目となる本書で明確に提示される。
上でも書いたが本書では、殺人どころか明確な犯罪すら何一つ起こらないことからも、それが理解できるだろう。

ということから逆算できるのは、前作『ナイチンゲールの沈黙』が「ミステリー賞を受賞した作品の、シリーズ続編なのだから、殺人推理物を書かなければいけない」という義務感と「作家として、医療の世界の外側の人間ドラマも書いてみせなければいけない」という、二つの大きなプレッシャーに押しつぶされて、負けてしまった結果生み出された凡昨(筆者は大好きだが)であり、そこへの反省から開き直ったのが、本作『ジェネラル・ルージュの凱旋』なのだという見方もできる。

海堂氏の一連の「田口&白鳥シリーズ」が「医療ミステリー」ではなく「メディカルエンターティメント」と呼ばれる所以であろう。

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