「この状況」は、リアルタイムで今を生きている、よつばという存在の主観にとっては幸福なのだろう。
しかし、この先自立して生きていく成長期を考える時に、人生スパンのトータルとして「そこ」が全くの未体験ゾーンとして欠落していることは、これは本当に「幸福なこと」なのだろうか?
無粋を承知でツッコミを想定すれば「漫画で描かれているのは、幸せな日常だけで、そこ以外ではちゃんとよつばも、叱られたり理不尽な目にあっているかもしれないじゃないか」という反論は一見有効なのだけれども、本作が、あまりにも丁寧に緻密に、よつばとその周囲の日常を、隙間なく描いている以上、それはないよとしか答えようがない。

「それ」が漫画のお約束なのだよという前提を踏まえても、そこで視点を変えた時「ほぼ毎日の連日で、自分たちの家族でもない、隣の家の幼児が、勝手に単独で自宅に上がり込んできては、好き放題を繰り返し、我儘がほとんど受け入れられている状況」に対し、5人家族の誰一人として、ただの一度も、叱ることも拒絶することも、迷惑ぶるそぶりすら皆無な「お隣さんの綾瀬家」という世界からして、違和感を感じざるを得ない。
確かにとーちゃんは、たびたび暴走するよつばに対して、諫めたり注意を促したり、よつばをフォローするスタンスで隣家や他の大人に接する描写は多い。
しかし、それはそれで、シングルファザーとして完璧すぎる人間像であり、この漫画は随所で、リアリティが肝心な部分で欠落しているのだ。

筆者はむしろ、この漫画を読み進めていくうちに、「その世界構造」を、決して理想的と受け止められなくなってきており、むしろ不気味だと感じてしまうようになっている。
育児論・教育論・人間論でいけば、完璧で理想的な世界なのかもしれないし、未就学幼児を主人公にした漫画で、その主人公が理不尽な目に合う展開を、面白いと思う読者など、そうそうはいないというマーケティングの基本も理解できる。
あずま氏の、写実的描写力とリアリズムが、むしろもうワンランク下手でさえあれば、むしろ「そこ」は気にならなかったのかもしれない。

代替テキスト

しかし、と筆者は気が付いた。
「この違和感」の正体、「この不気味さ」の正体は、まだ『萌え漫画』というジャンルが『ハーレム漫画』と呼ばれ、少なからず作劇上の主人公が少年であった漫画群を読んだ時の、違和感や不気味さに近い物がある。
少なくとも『ハーレム漫画』は、そこで登場する少年は、読者少年達の自己投影でなければならないため、恋愛スキルに関しては、決して上級者であってはならず、むしろ年齢=彼女いない歴少年読者の「等身大」に沿うように、その読者少年達から見て「これぐらいなら僕にも出来る」と思える範囲の「優しさ」を、だれかれなく、登場する美少女達に、次から次へとばら撒いては、自分が注いだ優しさや努力に対する、数倍以上の愛情を美少女達から向けられて、どんどん連鎖反応のように、その世界に登場する美少女達全員に愛されるという、およそ現実逃避の道具にするのも難しい、非現実的なファンタジーに終始していた。

漫画業界、送り手側も、その理不尽さに気付いたのか、それとも先に、読者層の年齢=彼女いない歴少年達が、魔法が解けるように非現実の夢から目覚めたのか、そういった『ハーレム漫画』は、今はオタク向け漫画のメインストリームではなくなり、むしろ読者少年の自己投影儀式を放棄したように「端から端まで、美少女しか出てこない」世界で、延々と何も起きない日常を描く『日常系漫画』が、イマドキの主流になっている。

そこで、既に消えかかっている『ハーレム漫画』の構造をスピンオフして、「少年」「未就学幼女」に、「美少女達」「社会を構成する、あらゆる人達」に置き換えれば、『よつばと!』がもたらす違和感や不気味さにはエクスキューズがつくし、そもそもの作者のあずま氏が、元々はハーレム系や萌え系、パロディ系が交錯する、オタク向け漫画生粋の表現者であることを思い出しさえすれば、何も不思議なことなど、最初からなかったのである。

「他の何を犠牲にしても、どれだけ現実を捻じ曲げようとも、どれだけの嘘を重ねようとも、世界の全てが、主人公にとって都合のよい要素でしか、構成されていない」

そういう解釈において『よつばと!』は、90年代以降の漫画界を席巻してきた『ハーレム漫画』の、置換によって成立した漫画なのだと、読み取れるのである。

『よつばと!』は、素敵な漫画だ。
そこには「優しさ」だけが存在し、主人公少女の人生に傷跡を残すような出来事は(今現在見受けられる限りでは)一切起き得ない。
いや、背景設定にある「外国人孤児」という背景設定の中に、あずま氏は「それ」を、そっと仕込んでバランスをとっているのかもしれない。

しかし、無菌室で育てられた生き物は、その外での耐性は驚くほど弱く育ってしまうのもまた事実だ。
「今だけはこの子に、つらい思いだけは一切させたくない」という思いは、それはそれでエゴではないかと反論したくなるし、しかもその思いが、とーちゃんや「ジャンボ」「やんだ」「ばーちゃん」といった「よつばの背景を知っている可能性がある大人」に限らず、登場する世界の住人全てが共有しているというのは、やはりこれは、不気味で気持ち悪いのだ。

子どもは、子どもである以上、子どもであるためには、やがて思春期を迎え、大人になっていく未来を見据えるのであれば、適度な理不尽さと、矛盾に満ちた世界の実情を、体感しておいた方が良いのだ。
道徳の教科書や、教育番組ドラマに出てくる「優等生の子ども」達が、作劇する大人たちの、子どもへ向けての無責任な願望の押し付けでしかないように、『よつばと!』に登場する大人達は、作者と、その世界を共有する読者層にとっての、自慰行為的な自己投影の自己満足的対象でしかないのかもしれない。

代替テキスト

「優しさしかない世界で、少女は大人の理想どおりに育つのか?」
筆者にはどうも、この漫画を(あずま氏への敬意があるからこそ)不安な目でしか見つめられなくなっている。

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