(例えば登場人物のうち、綾瀬家の三女でもある「えな」は、小学四年生という設定で、真面目で正直で、年上へは礼儀正しく、年下への面倒見が良くて、言動も落ち着いているという、ある種のステレオタイプな人格設定が行われている。一方で、えなの同級生として登場してくる少女「みうら」は、えなとは逆にボーイッシュで、男子によく間違われるルックスを持つと同時に、すぐカッとなって怒りやすく、ぶっきらぼうで大人にも物おじせずに向き合うという、こちらも多少ステレオタイプな人格設定が施されているのだが、例えば釣った魚を捌くとか、虫とか熊とか、そういった事象に対して、みうらの方は年相応に怯えて驚き、時には涙すら流すこともあるのに対して、えなは何も動じず、むしろ好奇心から、自分で魚を捌いてみようと言い出すなど、そういった「人格のリアリズム」への、ディティール部分でのバランス感覚が、全体的に絶妙なのである)

そんな中で、誰よりも年下で(モブや単発キャラを除けば、劇中の登場人物に、よつばより年下の、漫画世界住人はいない)、誰よりも自由で、誰よりも好奇心が旺盛で、誰よりも行動力が有り余っているよつばが、毎回何気ない日常の中で「楽しいこと探し」をするのが、この作品の中核であり、むしろ「それ」が全てと言っていい。

我々が当たり前だと思っているこの世界に、生まれてきてまだ5年しか経っていない、見る物も触れる物も、初めてだったり、何が何だか分からないだらけの「世界」で、自由奔放によつばが、人が人に育てられていく中で、社会が人を育てていく中で、理想的(すぎる)環境論の中で、日々を過ごしていく「楽しさ」それだけを伝えていく漫画である。
今、「理想的(すぎる)」という書き方をしたが、この、リアリズムと緻密さで構成された「究極の日常系」の中に、確固として存在する違和感に関しては、これにも言及しなければなるまい。

連載初期から追いかけ、コミックスになってもずっと読み続けてきて感じた『よつばと!』への違和感。
それは「リアルに構築された世界の全てが、主人公幼児少女にとって、なんの理不尽さもないままに『優しすぎる』という点」である。

代替テキスト

誰だって幼児期の記憶の中には、親に叱られた記憶や、大人に対して抱いた恐怖心が存在するものだが、本作に登場する大人は、若干の例外を除くと、とーちゃんの周囲や、行きつけの自転車屋やうどん屋の店主から始まって、通りすがりの大人や、その場限りのスーパーのレジのお姉さんから、信号待ちで出会ったヤクザに至るまで、殆どの大人が、よつばに対して優しく、初対面でも、よつばがどれだけ突飛な行動をとっても、怒ることも叱ることもせず、優しく見守り受け入れ、よつばを笑顔にさせるリアクションしかしない世界。

人間というのは環境が育む。
これは筆者自身が、若い人たちを相手にルポしてきた上でのライフワークテーマでもあるが、子どもにとっては家族、親や兄弟も「環境」であり、しかしその環境は、感情を持つ人間が構成している以上、理不尽も不公平さもあってしかるべきで、その「適度な歪み」の中で、人は成長し自我や認知を育てていくのだという絶対真理があるはずである。
この漫画は、はたして「そこ」を一切描かない。
確かに、作者のあずま氏の中で「そこを描かない」ことが作劇のテーマであるのかもしれないし、もしかするとファンタジー的理想形として「もしも人という存在が、その人格形成の重要時期である幼児期において、何も理不尽な大人や社会に押しつぶされるような思いをすることなく、育って行けたのだとしたら」というモチベーションがあるのかもしれない。
しかしその一方で「悪いことをすれば報いが来ることが社会であり人である」「正邪の判断が身についていない子どもが、間違ったことをした時には、大人が凛として、動物をしつけるが如きに等しく叱ることも、必要な時間とプロセスなのだ」も、動かしてはいけない不文律のはずである。
確かに作中では、よつばが悪戯をしたり、調子に乗り過ぎてしまう描写は毎度のごとくあるのだが、唯一の保護者であり、監督責任を担うべきとーちゃんが、よつばがしでかした事に対する、相応の対応で叱ったケースは、100回を超える連載の中で、片手にあまる程度しかない。それも、あくまで「幼児相手に教育的立場で、反省を促す」を最適化した、理想論としての指導・教育的指導対応であり、感情や鬱憤に任せて、怒りをよつばにぶつける大人などは、最初から存在しない世界に、主人公少女は生きている。

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