さて。「初めまして」とご挨拶するのもおかしな気持ちです。
今回からこの連載が掲載されます、私、市川大河の公式サイトでは、この文章から全てが始まる訳ですが、実は私にとって、この『市川大河のweb多事争論』は、いたって「今までやってきたこと」を、「今からも改めて場を変えて漕ぎ行く」だけの話なのですよね。
なにしろ、本書は一度2020年に『スマホ・SNS時代の多事争論 令和日本のゆくえ』というタイトルで、株式会社日本地域社会研究所さんというところから、書籍化されているぐらいには、私のネームバリューピラミッドの中でも上位に入るコンテンツなのです。
元々は無軌道だった若い頃があり、その先で、ジャーナリストの筑紫哲也氏を敬愛するようになりました。
筑紫氏は、『朝日ジャーナル』の編集長などを務めながらも、バブル後期の1989年に、TBSからのオファーを受けて朝日新聞社を退社、TBSのアンカーニュース番組である『筑紫哲也のNEWS23』という、日本のジャーナリズムに稀有な報道番組を築き上げました。
その番組の一番の特徴は、それまでは日本の報道で、メインキャスターが個人の言葉や考えを、堂々と発信してよい番組というのはほぼ皆無だったわけですが、バブル期の日本のテレビ界の機運というのもあったのでしょうか、筑紫氏は番組の冠に自分の名を記す代わりに、『多事争論』という「報道のメインキャスターが、一人でカメラに向かって語り掛け話すコーナー」を作ったわけです。
これはいわば、新聞で言えば社説のような物で、当時さまざまな異論や反論を呼びました。しかし、それこそが、筑紫氏がこのコーナーで掲げた、福沢諭吉が造語した「多事争論」の提起であり、やがて他局でもニュースキャスターが「自分の言葉で語り出す」流れを、作っていったきっかけでもありました。
その筑紫氏は、やがて2000年代に肺癌に侵され、2008年7月5日の『多事争論』で5分の尺を語り切り「それでも一度も、まだしゃべりたいだけしゃべったことはない」と遺し、テレビの視聴者へ向けて「多様な意見による自由な社会を」との願いを託し、同年11月に亡くなられたのであります。
当時の私のショックたるや、コレは酷いものでした。それと前後する形で、敬愛していた映画監督や脚本家の方などが次々に鬼籍に入られ、私は「今こそが、試されている時なのだ」と思い込むことにしました。
そうして、まだ当時はMixiでしたが、そこで個人発信で、筑紫氏の生前の同志の方等に見守られながら『市川大河のweb多事争論』という、世相や社会を見ての一人語りをはじめたわけです。
ですので、今回タイトルをどうするのかという話になったときにですね、とてもシステマチックな側面から「『市川大河の』は付けなくてもよろしかろう」という意見がディレクション側から出たので、私としてはそこは従ったわけですが、なにせ筑紫氏逝去の直後からですから、こちらもなんだかんだで12年の歴史を歩んでおりますので、このタイトルに愛着も親しみもあります。
書籍化の際も、より分かり易くという出版社サイドの要望から、なにかこう、一昔前の2時間サスペンス劇場のタイトルのような冗長な書籍名になってしまったわけですが(笑)
今回再開するにあたって、やはりこれは、私のサイトのスタート自体は直接の関係はないんですが、現代社会を今現在、残酷に地球規模で覆い尽くしているコロナ禍という敵、ですね。この現実を見て見ぬふりをして多事争論もできないだろうと思うわけです。
私の、このコラムをまとめた書籍は、先ほども述べましたように2020年に発売されたのですが、それも奇跡的な出来事が重なって、針の穴を通すかのようなタイミングで、出版が可能になったという逸話があります。そしてまた、既に内容のほぼ全部が決まっていながらも、「今そこにある危機」としてのコロナ禍を、社会の流れの果てとして記しておかなければならないとの思いに駆られ、今これを書いております一年少し前の、ギリギリのタイミングで原稿を差し替えたということも記憶に新しいです。
その出版から一年が経ちました。
コラムが書籍化され、そこからちょうど一年が経った今、この『市川大河のweb多事争論』が再開するというのも数奇なものを感じますが、現実社会は、私の書籍刊行から一年で、どう変わったでしょうか?
新型コロナウィルスの正体は、依然としてはっきりしないことが伝わっています。
このウィルスに関しては、レッドフィールド米疾病対策センター等の調べによって、非常に高い確率で、人為的に作られた物ではないかとの見方が強いと、英デイリー・メール誌も報じています。
米Facebookは本年5月「新型コロナウイルスが人工的につくられたという主張は、今後削除しない」との方針を明らかにしました。
こうした形で、人類を襲う驚異の正体が解明されていくプロセスは、とても大事なことであると、私も考えます。
しかし、そうした「新型コロナウィルスの正体」の謎を解き明かそうと人類が懸命になっているその時間の中でも、ウィルスに侵され、命を失っていく人が後を絶たないのが人類の現状です。
ですから、人類は今、総力を挙げて力を一つに合わせ、「この病に打ち勝つ薬」と「この病の危険さから人を守るワクチン」の開発と普及に、邁進しなければいけないわけなのですが。
ここまで書いてみさえすれば、あたかも小松左京氏辺りの壮大で人類規模のカタストロフSF娯楽の世界観や設定に近いのですが、フィクションという物は、かならずそれを産む神としての作者がいて、結論や結果を用意しております。
ハッピーエンドを用意する神もいるでしょうし、悲劇的結末を用意する神もいるでしょう。
だがしかし、「本当の神」という、いるのかいないのか定かではない存在に司られた我々が生きる「現実社会」は、そうやって状況や時間軸の先を俯瞰できる優位性を持った存在はどこにもいないのです。こればかりは老若男女、富裕層も貧困層も、分け隔てなく、この病の脅威の前に晒されているんですね。
ウィルスの正体と出自を探ることは勿論対処法を捜す一番確実なルートではありますが、とりあえず、今ひろがりつつある拡大感染や先進国ですら国力が疲弊するほどの経済打撃から脱するために、当座のワクチンという存在に、今は賭けてみるしかないわけです。
私は以前のこのコラム(書籍版収録『立ち止まる力』)でも言及しましたが、現実ではしばしば、フィクションの世界程には都合よく「やらない後悔より、やった後悔が吉と出る」とは限らないというのがあります。
WHOは、抗寄生虫薬の「イベルメクチン」は、臨床試験(治験)以外の目的で使うべきではないとの見解を示しています。一方、国内では東京都医師会などが、新型コロナウイルスの初期治療に使うべきだと訴えています。
同じくWHOは、抗ウイルス薬の「レムデシビル」は、入院患者への投与は勧められないとの指針を発表しています。一方、国内では厚生労働省が重症患者や中等症患者への使用を認めています。
これらは錯綜する先進医療の現場とバックアップの混乱ぶりを象徴しているわけですが、しかし、いざ「現場」では、「現場の判断」より先に「医療メーカーや学閥の利益や利潤」が優先されているのが現状です。
同じように、新型コロナウィルス自体が遺伝子組み換え型の人為的ウィルスであることから、ワクチンもmRNAワクチンと呼ばれる、少し珍しいタイプの物が、数社の薬剤会社の物が併用されて全世界で広まっています。
なにせ、敵は未曽有の人為型変種ウィルスですから、これを阻もうというワクチンもなかなか有効打が出せないでいました。普通、疫病のワクチンの開発と承認、実際の医療現場への投入には、慎重に辿れば普通なら10年、臨床実験等を軽減化しても2年から3年、どんなに早くてもかかるというのが常識で、それが、未だかつてないタイプのウィルス相手に、一年足らずで、米ファイザー・独ビオンテックや米モデルナが開発したmRNAワクチン、それに英アストラゼネカ・オックスフォード大学、露ガマレヤ研究所、米ジョンソン・エンド・ジョンソンとヤンセンが開発した遺伝子組み換えアデノウイルスを用いた「ウイルスベクターワクチン」等、複数社のワクチンが「効果あり、臨床成功」とされて、世界中に流通し、全人類がこれにすがろうという図が、なんだか私には、少し怖く見えるのも気のせいではないのでしょう。
mRNAワクチンやウイルスベクターワクチンはイノベーションであるという見識も発信されておりますが、日本はかつてワクチン問題で「京都・島根ジフテリア事件」(1948年)や「種痘禍問題」(1970年)を抱えた過去があることを、忘れてはなりません。
一方で、それらmRNAワクチンの早急すぎる実戦投入に懸念の声を発する、警鐘を鳴らす人たちもいます。
実際、アナフィラキシー反応を始めとして、当初の想定外の副反応が、事例としていくつも報告されていて、中には死亡例もあります。既に、アストラゼネカ社製のワクチンの接種は、欧州などで相次いで一時停止しています。
長崎県の山内診療所の宮崎医師は、自身の診療所のweb通信で、以下のように書いて危機提唱しております。
人工的に作成されたmRNAは、体内でDNAに組み込まれる可能性があるということです。これまで、mRNAは逆転写されることはなく、遺伝子には影響しないとされていました。しかし、一部は逆転写される可能性があるとの論文も発表されており、接種後、遺伝子の他の部位に影響を与える可能性を秘めています。その可能性がどんな形で現れるのか不明です。
もしかすると組み換えられた遺伝子が発がんを誘発するかもしれない。実際に、エボラ出血熱のワクチンが同じ方法で作られ 接種を受けた数十人に白血病患者が発生し、そのワクチンは製造中止となっています。
今回開発されているコロナワクチンのように、こんな短期間に開発された状況では、安全性は全く保障されていません。
新型コロナウイルスワクチンは本当に安全なのか?~これから子供を作る人達に接種すべきなのか~
私には、ワクチンは絶対打つべきだとも、絶対打ってはならないとも言えません。
上でも書きましたが、現実は小説や漫画ではないので、「絶対」はどこにもなく、今の我々はただひたすらに、経済と感染爆発のシーソーゲームに翻弄されながら、完全な安全性が担保されていないワクチンと、各国によって扱いが全く異なる治療薬をコンダクターに、現実社会という舞台を、進んでいかなくてはならないのが現状なのです。
それだけでも、不確実性と不安定性要素の、人類規模の未曽有の事態なのにも拘わらず、菅政権や小池都政は、東京オリンピックを開催することを強行突破しました。大会はまだ始まっていませんが、既に強行突破したと断言してもよいかと思います。
この人類危機に、ありとあらゆる変異種が、アスリートや大会関係者によって、どの国よりも盛大に持ち込まれる、夢の祭典が始まろうとしています。
既に報じられていることですが、アストラゼネカ製の新型コロナウイルスワクチンの2回の接種を完了して来日したウガンダの五輪チームの中から、既に新型コロナ陽性反応者が発覚し問題になりました。
オレゴン州で19日、東京五輪予選2日目で、ワクチンを接種した選手と関係者の計2人が新型コロナウイルスの陽性反応を示したとスペイン紙「マルカ」が伝えました。
もはや「水際作戦」は決壊しているのが現状なのです。
オリンピックは人類にとって夢の祭典かもしれませんが、人類がかつて対面したことのない脅威の前で、全世界から様々な人が集まることで「悪夢の祭典」にしてはならないと強く思います。
かつて、アメリカの『CBSイブニングニュース』の看板ニュースキャスターだった、ウォルター・クロンカイト(Walter Leland Cronkite, Jr)氏は、毎晩のニュースの最後を、必ず「And that's the way it is.(では、今日はこんなところです)」という言葉で終わらせていました。
ウォルター氏を敬愛していた筑紫哲也氏も、『多事争論』の毎回の最後は「さて、今日はこんなところです」で終わらせ続けました。
その遺志を継ぐ私もまた、その言葉を受け継ぎたいと思います。
さて、今日の『市川大河のweb多事争論』は、こんなところです。