前回は「市川大河仕事歴 映像文章編Part3『メガビタミン・ショック』」

前回までとは、少し時系列は遡る。
今回運よく、僕が初めて「自分が書いた文字が活字になってお金になる」を経験した「プロ仕事原稿」が掲載された雑誌が、数十年ぶりに手に入ったため、このタイミングで紹介させて頂こう。

僕にとって北九州は、沖縄と共に、二つある聖地の一つである。そう、話は「ここ」から始まる。
80年代のロックシーンを彩ったパンクムーブメントは、ARB、サンハウス、ルースターズ、ロッカーズ、全てがこの北九州から発信され、当時のロック小僧の間では、博多めんたいパンクと呼ばれていた。

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高校生の頃、映画のロケに参加した、やはり福岡出身の石井聰亙監督『爆裂都市 BURST CITY』(1982年)では、当時ロッカーズのVoだった陣内孝則氏やルースターズの大江慎也氏などの間で、強烈な九州弁が飛び交っていたことを思い出す。

博多久留米はもちろん、ARBの石橋凌氏の故郷であり、そして少し離れた長崎諫早は、市川森一氏の生地。
数年前、仕事でしばらくの間、北九州の小倉に滞在したときは、休日は足を伸ばして、天本英世氏が生まれ育った北九州の若松や、松田優作、丸山昇一両氏の故郷、下関まで出向いて、筆者が憧れ愛した人達の原風景を楽しんだ。

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10代の頃。
僕は無軌道だった。
良く言えば多趣味だが、いわゆる若気の至りというやつで、それが「オタク」であっても「PUNKS」であっても、他者や周囲から「こいつは○○だな」とレッテルを貼られて、そのカテゴリで偏見を持たれることがなにより嫌いだった。
だから少しでも興味を持ったジャンルにはとことん首を突っ込み、そしてどこへもバイクですっ飛んで行った。
「僕は○○だから、買うならこれを買わなきゃ」という発想が、その頃から大嫌いだった。

「お前てめぇ、パンクスが中島みゆきとかクレージーキャッツとか、ヌルイ音楽聴いてんじゃねぇよ!」と胸倉をつかまれて凄まれれば「中島みゆきはクラッシュよりパンクだぜ? クレージーキャッツはザ・フーなんか足元にも及ばねぇ、日本のパンクの元祖だぞこのやろう!」と凄み返していた。

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当時の彼女が「ロックと言えばアルフィーだよねぇ」などと言おうものなら、机を蹴飛ばして「俺の前で二度とアルフィーをロックとか呼ぶんじゃねぇよ! あれは松山千春とかさだまさしと同じジャンルだ!」と怒鳴った。
「そんなのあんたのメジャー嫌いなだけじゃない」
そう反論されたらされたで、井上陽水サザンオールスターズと、RCサクセションはメジャーだけどパンクだよ。パンクは楽曲の形態で決まるもんじゃねぇ。魂だよ」と、カッコつけて凄んでいた。

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高校の時、教室の片隅で(今から思えば)元祖のオタク達が、流し分けの髪を掻き分けて、眼鏡の位置を整えながら「拙者が思うにですね、ポストガンダムとしてのマクロスはですな」とか語り合っている中に、いきなり革ジャン投げつけて「形だけ真似てもエピゴーネンだろがあほう! ガンダムが語ってたニュータイプを発生させる源が、『戦闘メカ ザブングル』(1982年)の体力だってなんで気づかねぇんだ馬鹿!」と怒鳴っていた。
そして「ガンダムの延長でマクロスを観るくらいつまんねぇこたぁねぇぞ。どうせなら『宇宙刑事シャリバン』(1983年)を観ろ」と続ける。
「いやーあんな子ども向け」とか、眼鏡オタクが苦笑しようものなら、今度は筆者が胸倉つかみあげて「いつまで商売上手い大人の、思春期青年狩りにお付き合いしてやってんだよ! ヤマトとガンダムの違いもわからねぇから、マクロスなんて観てるんだろ? それがアニメかドラマかで選ぶな、『本気かどうか』で選ぼうぜ!な?」とかのお説教を始めていた。

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まぁいわゆる「俺はお前らとは違うんだぜ」をキャッチフレーズにした、痛い10代だったわけですよ(笑)
けど、たった一つ「自分のアンテナ」だけは信じ続けた。
「パンクスだから」「オタクだから」「バイク乗りだから」そういう基準で、何を手に取るかを決めるのが大嫌いだった。
けど、迷いはずっと続いていた。

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