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この映画の舞台になった福島県いわき市といえば、後の2011年東北地方太平洋沖地震で、福島原発事故の被害を受けた地でもあり、そういったアレコレを今顧みると、その凄惨な事故の僅か5年前に、その地を通じて、不景気で意気消沈している日本のすべてへ向けてへ元気を託そう。弱気に負けて項垂れている日本に、いわき市の歴史を見せることで、勇気を抱いてもらおうとしたこの映画のモチーフテーマが、逆にずしりと突き刺さってくるのである。
以下の文章は、筆者が映画公開当時に発表した『フラガール』の映画評であり、そのラストに託されたメッセージは、現状の福島と日本を鑑みる時には辛すぎるものもあるが、一つの歴史、時の流れの残酷さを追う軌跡として、今回はそのまま再録することにした。
どうか。もう一度福島に再生を。今一度日本という国に希望を。果てしない夢を。変わらぬ瞳を……。

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2006年。映画『フラガール』を試写会で観た。
未見の方にネタバレしない程度に概要を解説すると、舞台は昭和40年の福島県いわき市。
当時のいわきは炭鉱の町で、日本では60年代までは石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、石油エネルギーが台頭してくるまでは、燃料産業の花形だった。
しかし高度経済成長は石油時代を呼び込み、日本各地の炭鉱は急転直下凋落し、北九州や北海道夕張をはじめとして、次々に炭鉱規模は縮小されて、やがて全てが閉山の憂き目を見ることになってしまう、そんな時代。
いわきも例外ではなく、第一次人員整理の二千名をはじめとして、町に生きる全ての人々の命運が閉ざされようとした中で、市は起死回生の打開策を打ち出した。
市をあげて娯楽施設を作ろう、北国福島にハワイを再現しよう。
その施設で、炭鉱労働者を再雇用して生き延びようと。
それが後に現実化した、常磐ハワイアンセンター構想だった。

そのハワイアンセンターで、フラダンスを踊るために手を挙げた少女たち。
父を落盤事故で亡くした紀美子(蒼井優)や、小百合(南海キャンディーズ・しず)は、炭坑節か阿波踊りしか踊れない、田舎のずぶの素人達だったが、東京から迎えた元SKDのダンサー・まどか(松雪泰子)を先生にして、少女たちは炭鉱の町を救うためにフラガールを目指して必死に頑張るという物語。

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企画としては、昨今邦画の世界では一つのジャンルとなりつつある、『ウォーターボーイズ』(2001年)『スウィングガールズ』(2004年)(両方とも監督は矢口史靖)的な「集団で一つの目標へ向けて努力して成功を掴む」ドラマの定番であり、また『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年・山崎貴)以降の邦画にみられる「高度経済成長時代への憧憬」をも取り入れたジャンルに仕上がっている。

スタッフは、脚本は羽原大介氏。
つかこうへい事務所出身で、本作と井筒和幸監督の『パッチギ!』(2004年)で、二年連続最優秀脚本賞を受賞するなどの一方で、アニメの『ふたりはプリキュア』(2004年~)シリーズや、『あたしンち』(2002年~)なども執筆するマルチな才能の脚本家。
監督は、在日コリアン三世の李相日氏。
ぴあシネフェス等で才能を発揮していた李監督は、村上龍原作・宮藤官九郎脚本の『69 sixty nine』(2004年)で脚光を浴びた。

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そんなコンビが放った本作であるが、第一印象は「手堅いな」という感想。
ドラマ構築的には凡庸かつ、取りこぼしなく詰め込み過ぎず、およそ上記のあらすじを読んだ普通の人たちが、そういった実話を元にドラマを創作する時に思い浮かぶだろう「炭鉱の貧困ゆえの友人との別離」「フラダンスを知らない少女達のギャグ描写」「東京からやってきたダンサーと地元民の軋轢」「終わりゆく炭鉱への想い」などなどがバランスよく配置され、普通の感動を呼ぶ要素は満たされている。

むしろ自分が気になったのは、そこそこ絡ませやすいキャラ配置の人物相関であるにもかかわらず、この映画には、一切恋愛要素が含まれていないということ。
例えば、タイトルにもなるフラガールの初代リーダーになる紀美子には、およそ恋愛対象に発展するようなキャラクターがそもそも存在せず、また、東京からやってきたまどかに対して、紀美子の兄である洋二朗(豊川悦司)がその対象になるような立ち位置を僅かに見せるが、しかしそれは決して恋愛へと発展することもなく、まどかは自分が失った夢を全てフラガール達に託す形で、また洋二朗は、あくまで失われゆく炭鉱が生まれ変わる姿を見守る役目として、一瞬、それらが交錯する姿を描く以上の展開はないまま、ドラマは幕を閉じる。
ここに、李・羽原コンビによる確信犯的ドラマ設計を見ることは可能だ。
実際、撮影までされたラッシュ段階では、小百合にのみ、淡い恋愛描写が組み込まれていたらしいが、最終完成品ではその部分すらカットされていて、それがどういった段階を踏んだ上でのハサミだったのかは窺い知れないが、少なくとも、それを残していれば上で書いたような「一般の客が想像する、この手の映画の構成要素」を網羅できたのに、あえてカッティング処理で、恋愛要素の全てを除外した編集姿勢からも、逆にこのコンビが、本作を製作するに当たって、恋愛という要素を排除したかった姿勢が垣間見えるのである。

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そういった意味性において、本作は凡庸でありながら凡庸ではない。

本作でスポットが当てられるのは、旧体制的炭鉱町の没落と、ハワイアンセンター構想をもってしての革新的な町おこし事業の対比であるが、それはつまり、男性社会の終焉と、女性社会の可能性との対比であるとも受け取れる。
そこに明確な「男女対立」の図は、それほどはっきり描かれるわけではないが、劇中、紀美子の母・千代(富司純子)の台詞に象徴されるように、「暗い炭鉱の中で、男たちが黙々と石炭を掘り続け」ることで支えられてきた町経済が、時代の波に飲まれて終焉を迎えようとしていく中で、「華やかなライトを浴びた娘達が、笑顔でダンスを踊る」ことで新たな時代を切り開く。
本作のラストはそんな時代の変換期を象徴的に描いている。

その対比はある意味で男女社会対立構造であり、だからこそ、そこで安易に両者を等価にさせてしまう恋愛要素は省かれたのだろう。

東京から流れてきたまどかは、親の借金を抱えて苦しみながらも、はすっぱでやさぐれた「都会の女」として登場する。
よくあるドラマであれば、トヨエツ演じる洋二朗がその借金問題を解決し、まどかはそこで心を開き、恋愛に発展するなどという展開が用意されるのだろうが、そういった展開へのフラグは立ったものの、決してドラマは安い方向へ流れることはなく、父の死に目に会えなかった小百合も、友を失った紀美子も、女たちは皆、フラダンスの晴れ舞台で、華麗に踊るというその一点を目標にして、ドラマは全て協奏曲のように、そのラストへ流れていくのである。

それは、自分が常に映画を読み解くときに意識しようとしている、映像力学・映像理論にも明確に現れている。

まず、この映画を視覚の点で観ていくと、まず気づかされるのがその映像色彩設定。
時代性や郷愁感を誘うことを目的として、本作では全編においてセピア調の画面処理が施されている。
しかしよく観察していくと、その色温度処理が二つの方向性で、適正彩度に補正されていく過程が、映画のストーリーの裏に流れている。

一つは少女たちと炭鉱の対比。
これは画面補正と共に、衣装や小道具の彩色などの力も借りていて(炭鉱側と少女達が、同じ画面に映りこむことも多いため)それらの色彩性が、映像力学としては観る人の無意識に、明確にその差異を伝えることに成功している。

もう一つは、少女達の成長と情緒を反映した色彩処理が、随所に施されていること。
最初期の練習場には、フラットなピンスポが当たるのみの照明効果の中で、往年のダンス名画『フラッシュダンス』(原題: Flashdance 1983年)を思わせる、明暗のくっきりしたビジュアルを生み出しているが、これは心理学的には、安静的ではない情緒表現の象徴である。
まどかと少女たち、そしてそんな女性達と炭鉱側の間などの、数々の軋轢やストレスを、光と影のコントラストで明確化しているという映像設計である。
そして物語が進むうちに、段階的に少女達の点描を表現するシーンやカットでは、意識的に画面処理に、鮮やかな色彩が用いられていくようになっていく。

だが物語中盤で、その「少女達を取り巻く色彩処理」が意図的に失われるシーンが挿入される。
小百合の父親死去をきっかけにした、まどかが汽車で帰ろうとするまでの一連のシーンであるが、この部分では少女たちの服装や、画像への処理などから、そこまで高まりつつあった彩色処理が完全に失われている。

そういった緩急をつけて「色」という要素を操っていった先にあるのが、クライマックスからエンドタイトルまでの、極彩色の晴れ舞台の映像なのである。

映像力学的には、視線の反対側に空間を築く手法が多用されていて、これは、その各カットが伝えようとしているものが、その、シーンごとの物語的な意味だけではなく「今展開している物語の、状況的背景」でもあるのだという意味であり、つまり、李監督はこの物語を、常に群像的青春ドラマとして表層を描写しながらも、一瞬たりともそのレンズの視点は、彼女等の青春の背景にある、あの時代、そして炭鉱廃坑という社会背景からは逸れていないという証明でもある。

少女達の、青春を賭けた夢。
そして、炭鉱の未来を賭けた夢を描きながら、その両方を、常に「色彩設計」「画面構成」という二つの形で映像に配置して、物語はクライマックスに向けて進行していく。

「少女たちと炭鉱」「男社会と女性社会進出」「都会と田舎」
色彩設計と画面構成といった映像技法を駆使して、数々の対立構造を平行して描いていくドラマであるが、それらの全ての要素を溶け合わせたのが、「未来を掴む手法」に過ぎなかったフラダンスであったという導きは、オーソドックスゆえにしっかりとした手ごたえを、観る者にもたらしてくれる。

特に、ドラマ序盤でまどかが少女達に教えたフラダンスの基本理念である「手話的振り付け」が、それが解説されているシーンでは、ウンチク的な扱いだったにも関わらず、色彩を失った終盤の土壇場で、人と人を繋ぐ役割を果たす伏線となっている辺りは、このドラマで(実話であるのは千万承知だが)その「手段」が、フラダンスでなくてはならなかった理由付けに帰結している。

様々な形での対立構図を描いた本作であったが、誰一人として「悪役」が存在しなかったのも、このドラマの特色だろう。
「恋愛要素」と「悪役」
ドラマを効果的に彩る一方で、陳腐な安い三文芝居にもしてしまうこれらの要素を、徹底して排除した李監督のドラマ設計は、ひたすらラストのフラダンスに、何が込められているのかに向けて収束していく。

それはまさに「脚本家が文字では全てを描けないクライマックス」であり、そしてその、着地点ともいえるクライマックスにおいて、そこまで用意されてきた全てのファクターを、ぶち壊さないで着地させたのは、実は李監督の力量ではなく、全ては蒼井優のダンスの魅力と笑顔だったのだろう。

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この映画の功績は、脚本家の物でも監督の物でもない。
蒼井優だけのものでもない。
それらを全て融合し、写し込み、切り貼りされたフィルムだけが、物語る魅力もあるのである。

この映画は第79回アカデミー賞の外国語映画賞の日本代表に選出され、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞他7部門受賞をはじめとして、第80回キネマ旬報ベストテン、邦画・読者選出邦画第一位、第31回報知映画賞の最優秀作品賞・最優秀助演女優賞、第19回日刊スポーツ映画大賞の作品賞他三部門、第61回毎日映画コンクール二部門・第49回ブルーリボン賞・第21回高崎映画祭、2007年エランドール賞・第16回日本映画批評家大賞、第44回ゴールデン・アロー賞などを受賞した。

映画の舞台になった常磐ハワイアンセンターは、この映画でのまどかや紀美子のモデルとなった、元SKD早川和子や、常磐音楽舞踊学院1期生の小野恵美子などの功績によって、オープン4年後の1970年には年間来場者数が155万人を突破。1990年に名称をスパリゾートハワイアンズに変更した後、この映画が公開された2006年には、延べ入場者数が5000万人を突破して、現在も福島県いわき市の人々を支え続けている。

(ここまでが、映画公開当時に執筆した映画評であり、その後2011年3月11日東日本大震災に直撃を受け、今もなお、その震災の後遺症と戦い続けている……)

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