――そういう時代を迎えるまでの70年代までに、監督がされていた仕事の数々が、今のこの時代に、様々な形で再評価されています。それは自分のように、個人単位であっても、ネットを使ってウルトラなどの紹介や、リスペクトなどが広く行われています。そのことについて、監督はどのように受け止められてておられますでしょうか。
山際 もちろんそれは、ありがたいなとも思うし、不思議だなとも思うんですよ。『帰ってきたウルトラマン』(1971年)をやってた頃は、さっきも言ったように、最後は怪獣が出てきてウルトラマンが勝っちゃうというパターンでね。ウルトラマンが出てきてからは、特撮監督にあとは任せて、僕は編集するだけなんていう逃げ方もしてましたよ。だけど、エース(『ウルトラマンA』(1972年))を経て、タロウ(『ウルトラマンタロウ』(1973年))の頃には、僕も、すっかりそういう世界に入り込んで、喜んでやってたっていう時期もあって。今から思えば、ウルトラマンシリーズだからやれたこともあるなぁと。ほかのホームドラマや刑事物では、出来ないことをやれたなというのはあります。『恐怖劇場アンバランス』(1969年製作 1973年放映)で、熊谷健さんと出来たことも、一つのピークだったし、あと、東宝のテレビ映画で『ジキルとハイド』(1969年製作 1973年放映)というのがあって、五社(英雄)さんが中心だったんだけど、『恐怖劇場アンバランス』のフジテレビ側のプロデューサーで新藤善之さんがいて、そこら辺の繋がりで『ジキルとハイド』ってのは、ちょびっとしかやってないんだけど、あれはとても面白かったんだよ。
――『ジキルとハイド』も『恐怖劇場アンバランス』も、製作から放映までかなりの間お蔵入りしてましたね。
山際 そうなんだよね。五社アワーで皆お蔵入りになっちゃう(爆) あと、東宝で、これも橋本(洋二)さんだけど『日本沈没』(1974年)をやった。映画は東宝で森谷(司郎)さんがやったんだけど、映画は総理大臣を主人公にして作ってる。日本が沈没しちゃうから、いかにして日本人を逃がすかという話になってる。
――映画版は、ポリティカルフィクションとして作られていましたね。
山際 そう、ポリティカルフィクション。ところが、テレビの方では小林桂樹さんの学者が主人公になっていて、日本が沈没するぞというと、皆が馬鹿にするわけですよ(笑) 「何を言い出すんだ」と「日本が沈没するわけないじゃないか」と。皆、小林桂樹を馬鹿にするんだけど、結局彼の言うとおりになっていっちゃう。九州からだんだんだんだん沈んじゃう(笑) これが面白くってねぇ。
――ちょうど監督がお撮りになられていた話が、九州が沈む辺りでしたね(『鹿児島湾SOS!』『天草は消えた』)。監督の『日本沈没』は、石堂淑朗氏と組まれていた話がありましたが、石堂氏を引っ張ってきたのは監督だったんですか? それとも橋本(洋二 TBSプロデューサー)さんの側だったんでしょうか?
山際 石堂さんはね、もちろん橋本さんがかんでましたよ。長坂(秀佳)さんも多かったんだよね。
――『日本沈没』は、長坂さんがメインライターでした。
山際 『ジキルとハイド』も長坂さんだったね。あの人は東宝の出だからねぇ。だからまぁ『日本沈没』は僕らにしては「しめしめ」っていう感じでした。
国際放映、東宝、円谷プロ、東映、様々なプロダクションでメガホンを執り、ヒットメーカーだった山際監督。そんな山際ドラマに欠かせない存在と言えば「子ども」でした。次回「山際永三と子役選びと『サンキュー先生』と」さあ次回もみんなで読もう!