――山際監督が、高見知佳さん主演で、『コメットさん』の佐々木守氏と再び組んでお撮りになった『おてんば宇宙人』(1981年)は、そういう意味で山際監督なりの、『コメットさん』のリメイク・再挑戦であったわけですか。
山際 そうでしたねぇ。あれは日本テレビでやったんだけど、日本テレビが「『コメットさん』みたいなのをやりたい」と言うんで、やったわけなんだけどもね。どうも上手くいかなかったんだよね……。
――『おてんば宇宙人』は、山際監督と小池要之助監督で全話をお撮りになっていましたね。小池監督は、故・松田優作さんととても懇意で、村川透監督の助監督を長年勤めた後、『探偵物語』(1979年)で監督デビューされまして、本編では松田優作主演の『ア・ホーマンス』(1986年)で監督デビューするはずでしたが、撮影途中で演出論を巡って、松田優作さんに解任されてしまいましたね。
山際 なんでそんなことになっちゃったんだろうね。確かにね、彼は助監督としてはピカイチなんだけどね。監督としてね、やや自分の作りたいものが(手を狭めて)こうなっちゃう。確かに監督っていうのは、自分の作りたいものがあったとき、周りにあれこれ言われるとごちゃごちゃになってきて、難しいことは難しいんだけど。やっぱりそこは、僕はかろうじてなんとか、綱渡り的にやってきたんだけれども、プロデューサーも納得せざるをえない常識的な理屈と、自分のそれこそ狂気を描くなんていうような狭い世界とを、なんとか誤魔化して融合させるということを、自分の中ではやらなきゃいけないわけですよ。それがね、小池要之助には出来なかったのかなぁ。小池要之助のことは、非常に僕は、気の毒だなぁと思ってますよ。あいつはあの年代にしては珍しくね、助監督としては最高でしたよ。小池ちゃんが監督として上手くいかなかったというのは……なぜなのか……難しいねぇ……。彼は確か、下関かどこかの……。
――そうです、松田優作さんと同郷になりますね。
山際 それでいて……なんで喧嘩しちゃったかなぁ(笑) 彼は僕の助監督やってたから、最初は。途中から彼は(『おてんば宇宙人』の)監督やったから。
――『おてんば宇宙人』に関して、もう一つお尋ねしたいのですが。佐々木守さんが最初の一本だけ書かれているのは、山際監督がお呼びになったんですか?
山際 いや「『コメットさん』的なものを」ってことで、最初から決まってて、国際放映に古屋(克征)っていう、僕より年下のプロデューサーがいたんだけど、彼が日テレのプロデューサーと組んで、企画をやってきたんだけれど、日テレの人が「佐々木守の脚本がどうも面白くない」というわけですよ。僕になんとか直してくれと言うんですよね。佐々木氏に、なんとか頑張ってほしかったんだけど、なんでだか佐々木さんが忙しくてね。途中から(佐々木氏が)出来なくなっちゃったんです。でも、これも途中でだめ(打ち切り)になっちゃって。ああいうものが受け容れられなくなった時代が来たのかなと。でも不思議と『あばれはっちゃく』だけはあたったんですけど、後はどんどん上手くいかなくなってきちゃって。
80年代という時代に追いつけなくなったのか。それとも社会が山際監督のメッセージを排除する方向へと進んだのか。次回は子ども番組から離れて、邦画の世界における山際監督の考察と視点を語っていただきます。次回「山際永三と佐藤重臣と小津安二郎」みんなで読もう!