琉球人にとって神々は、沖縄の島の遥か南方にあるニライカナイという国にいる。
沖縄の民にとって、自分らを取り巻く自然は、そのままイコール神々であり、またその神々は皆、南方の常世の国から遣わされた存在であるのだ。
そこに、M78星雲からやってきたウルトラマンと、彼に護られる地球という構造を伺い見るのは、既にウルトラマン世界の読み解きの基本ではあるのだが、ニライカナイがもたらす形としての神々は、自然の形をとっているために、そこに命がある。
命はもちろん有限であり、そこには死が必ず存在し、死んだ命はまたニライカナイへと戻って、神々の命は輪廻するのである。
そのことは、最終回でウルトラマンが死んでなお「命を二つ持ってきた」ゾフィによって、蘇ったウルトラマンが、M78星雲(ニライカナイ)へと帰っていく姿に集約されている。
神ではあっても、永遠ではない存在の金城ウルトラマン。
そこに野長瀬監督の「ヒーローは完全無欠であれ」が混在した時に、ウルトラマンは時間的な永遠を、そこに示してみせたのである。
時間と空間の両方を、制してみせることは、万物の覇者の、永遠のテーマである。
それらを制した時は、その存在は文字通り神と呼ばれるだろう。
そこに「永遠の時間」を与え、ウルトラマンを聖書でいう「アデルフォス」へと押し上げたのは、琉球的アニミズムの金城氏ではなく、野長瀬監督だったのかもしれない。
そんな「永遠を手に入れた完全無欠なヒーロー」であるはずの、ウルトラマンは本話において、沖縄的シャーマン・チャータムの力を借りて、初めて魔物・アントラーを討ち滅ぼすことができるのである。
ウルトラマンが完全無欠の神だと仮定して、その神もまた、人間の助力なくしては魔物をやっつけられなかった。
つまり、人間の力がなければ、ウルトラマンは完全無欠ではいられなかったのだというこの話の構造は、人間の存在もまた、神が神であるべき条件の一つであるという真理を描き出しているのである。
「ヒーローにも、弱さは必要だ」は、昨今のヒーロー物語では当たり前のドラマツルギーではあるが、例えば金城氏は『ウルトラセブン』において、セブンの弱点がはじめて明かされる『零下140度の対決』という話で、セブンのSF設定的弱点と共に、セブンという存在が潜在的に抱えていた、本質的な弱さすらも描いてしまった。
しかし、ヒーローへの確固たる信念を持つ野長瀬監督がリードした本話においては、ウルトラマンがはじめて出会った強敵に相対する為には、人神一体になることがそれを乗り越える条件であり、また、人が人として、神が神として、揺るがず存在できる条件であるのだと、それを訴えているのである。
その一体感は、ある種の幻想と恍惚感を伴って、『ウルトラマン』という作品全体を包み込んでおり、そしてその一体感は、後の、どのウルトラシリーズにも感じられなかった暖かさを伴っている。
『ウルトラセブン』は神ではなく、一人の異人として、如何にして地球という異文明と同化するか、その中で異人の自分が何をすべきか、がテーマだった。
『帰ってきたウルトラマン』(1971年)が描いた、神と人との同化構造は、一個人のメンタリティの中においてであり、その二つが同化して、改めて発生した「個」が、どのようなアプローチで、周囲の「人間達」と一体感を持っていくか。それがテーマだった。
『ウルトラマンA』(1972年)のウルトラマンエースは天使であり、神とは微妙に異なる存在であった。
天使は使役のために命を削る存在であり、大いなる神々の意思を、下界の人間達に伝える存在である。
そこには人類との一体感は不在であり、それゆえエースは最終回でも「伝える」ことしか出来ない無力感の中で、去っていくしかなかったのである。
『ウルトラマン』という番組を、包み続けていた一体感を思う時、そこにはもちろん、金城哲夫氏が持っていたコスモポリタニズムが核となっている、という分析に異論はないが、その一方で、野長瀬監督や飯島監督、円谷一監督といった演出陣による、「自分達が生み出した英雄への全幅の信頼」といったものもまた、大事な要因として感じられるのである。
一方で、共筆した金城氏によって、ラストシーンで描かれる「蜃気楼の街・バラージ」「我々にはどうすることも出来ない」というムラマツキャップの独白は、やがてセブンの最終回での(同じ人間代表としての隊長である)ウルトラ警備隊・隊長キリヤマの「地球の平和は、我々地球人の手によって掴み取らねばならないのだ」という台詞に帰結される。
それでも、バラージに住み続けるチャータム達にとって、バラージは決して蜃気楼ではなく現実のはずだが、それでもチャータムはバラージを「みんなの心の中に生きる街」と呼ぶ。
他者と繋がることで、初めて生きている実感を得られる人という生物にとっても、その、人と人が集い、繋がって成立する街にとっても、存在を忘れられるということは、自分達が消えていくということである。
そして、それは逆説的なことを言えば、自分を、自分達を「知っていてくれる人」が生き続ける限り、無に帰すことは決してない、ということでもあるのだ。
科特隊の面々は、受け継ぎ手渡されたのだ。
「バラージがそこに在った」という出来事を、蜃気楼にしない責務を。
そして、その昔、日本列島の南沖海上には「琉球王国がそこに在った」のだ。