賢明な、私を知る方ならば、私が『機動戦士ガンダム』(1979年)の富野由悠季監督の信望者でもあり、敬愛していることをご存じだと思いますので、この質問攻めが如何に破廉恥な価値観の押し付けなのか、ご理解いただけると思います。
実際、この問答の後に、うろ覚えで探した富野監督の語録の中に、これらのようなコメントが見つかり、私は改めてその質問から受けた不快感が間違っていなかったことを再認識しました。
そんな出来事も手伝って、私の中にあった「世に問う。人に問う」力が、枯れかけたのも動かざる事実だったのです。
お前が何か物申してなにが変わる? 何が動く?
逆に、お前に寄ってくる人望は、お前の一番嫌悪する価値観を何度も何度も何度も何度も、ぶつけてくるではないか。
私の中にいる、悪魔のようなもう一人の自分が、私の『市川大河のweb多事争論』への熱意と継続心を、折ろうとしていたのも事実です。
例えば今年の8月15日。もちろんその日は終戦記念日なのですが、その日でもよいですし、広島や長崎や沖縄で悲劇が起きた日に、なにかしらの反戦メッセージを発信することは、私達のような日本人のせめてもの義務であると思いつつ、今年は結局、筆を執ることはなく、終戦の日を過ぎてしまいました。
そこで、きっと私もどこかで罰が悪かったのでしょう、言い訳めいた呟きを、Twitterで書いてしまいました。さらにそこに、下賤なスケベ心で自著の宣伝までちゃっかりしてしまうという体たらくです。
ただ、怠け者の恥さらしのツイートに、しかし、懇意にしてくださってる相互フォロワーさんから、こんなリプライが飛んできたのです。
正直な本音を今書きます。
虚ろな我が胸に、杭を打たれた気持ちになりました。
確かに「あなたが知らないところで、あなたは誰かに愛されているかもしれないし、憎まれているかもしれない」は、昔から多事争論の中で書いてきた概念ではありますが、同人誌と違って、プロの書籍というのは寂しいもので。一度原稿が自分の手を離れると、どう流通して、どの書店にどう並び、どう売られて誰が買い、どんな受け止められ方をしているかが、ファンレターか実際にお会いするでもない限り、まずそうそう受け取れないシステムになっています。
拙著も、出版開始当初は、幾人かの知人や物書き仲間や敬愛する方などから、感想やアドバイス、苦言等を頂いたものですが、出版から一年が経ち、しかもこれだけ新型コロナ禍が長期化して国難にまでなると、我が子の行く末に思いを馳せることも少なくなってきてはいたのです。
けれど、恋愛や人の縁や気持ちがそうであるように、自分の「大切だった何か」が、他者にとって「大切になれるかどうか」は決められません。ましてや「いつまで大切にされ続けるか」となると、もはや想像の域を超えてしまいます。