筆者による当サイトの書評ラインナップの序盤は、現代ミステリーベストセラー作家の代表ともいえる、東野圭吾氏の作品群から、入っていく流れで始まった。
作家という存在は、作品のジャンルやルックスを如何に変えても、そこでは(下手をすればデビューから晩年に至るまで)決して変わらない、変えられない「核」のようなものがある。
今回のこのコラムでは、まずは東野作品を個論で語る前に、東野圭吾という作家の中にある「変わらない核」を、まずは表層的に捉え、このコラムをガイドにすることで、各東野作品書評論を進める前提としたいと思っている。
まずは(しつこいようだが)あくまで表層的に、東野作品、作家・東野圭吾の特徴を箇条書きで気づいた点で挙げてみる。

東野圭吾氏

・東野文学は、その事件も謎も真相もきっかけも動機も解決も、全てが「僕(東野氏)は女の子の気持ちって分からへんねんなぁ」で構成されております。

『新参者』ではそのものずばり、テレビでは阿部寛氏が演じた、主人公加賀恭一郎が「いやぁ、女性の気持ちというのは分かりません」と言っているし、そもそも『秘密』ってあれは推理小説ちゃうやんファンタジーやん」も、そこを踏まえると「だって東野小説の全ては『オンナノコッテワカラナイ』で構築されているんだからジャンルは関係ない」に落ち着くのです。
東野氏のデビュー作『放課後』で、よく指摘されている「犯人が殺人をするに至った動機のあまりにもの弱さ、理不尽さ」も、ラストの唐突な遮断さも、このキーワードで全部解明。
そこを用いて、女性版大藪春彦的ピカレスクロマンを目指したのが『白夜行』
それらは、東野氏の「性」が持ち合わせている「異性への敬意」でもあるんだけど、そこをロジック、レトリックとして都合よく使いすぎる面はある。

・東野文学は、推理小説として卑怯な手段を用いすぎる。

そこは『容疑者Xの献身』では、文壇を揺るがす論争にも発展したのだけど、東野推理小説ではたびたび、ラストの解決編においていきなり、それまで全く読者に開示されてなかった、情報や人物を謎解きに用いて、読者が「今になって、ここでそんな裏事実をいきなり明かされても、こっちはエスパーちゃうねん、そんなん事前に予測なんかできるわけないやん」と叫ぶしかない、強引な解決をやってしまう。
東野氏はひょっとすると「作者が作品に仕掛けた謎が、結末前に読者に予測されてしまうことへの恐怖心」が人並み以上に強いのだろうか?
ラストに、それまで全く描かれてなかった人間模様や謎解きの鍵を持ち出し、それをもってクライマックスを展開してしまう。
特にこれは、アンソロジー短編集である『探偵ガリレオ』シリーズに顕著。
『新参者』をテレビドラマだけで観た人に向けて一例を書くと、『洋菓子屋の店員』の回で謎の解き明かしの鍵となる、峯子(原田美枝子)が「息子の恋人の働いている店を勘違いした鍵」としての、「銀行が合併で名前を変えて、同じ名前の銀行が近接して存在していた」は、それくらいは、章の前半でさりげなく書いておいたっていいだろうにとも思うのだ。
最後になってから「実は……」と言われても「はぁそうですか」としか言えない。
まぁそこで「さりげなくは書けない」が東野流なのだが(笑)

・東野文学は、コンセプトがあざとい。

なんというか、小説単位のコンセプトが、代理店的なあざとさを持つ。
「あえて犯人が誰だか最後まで明かされない推理小説を目指す」
「あえて今の推理小説では常套になっている、キャラクターシリーズ(加賀恭一郎シリーズ)において、作品単位で作風をガラリとかえて、読者を煙にまこう」
等々。
『新参者』は、そういう意味では当初のコンセプト「本筋の事件など実はどうでもよく、事件が捜査される脇で起きる、罪や罰とは関係ない市井の人々の人情を描く」が、何回か短編で継続しているうちに欲が出てしまったのだろう「グランドホテル形式で一大大河巨編へ」と、唐突にコンセプトを変更してしまったパターン。
というか、東京生まれ東京育ちの、江戸っ子筆者的に少しカチンときたのは、そこで描かれる「人形町を舞台に繰り広げられる人情物」が、あまりにも「非東京人(東野氏は関西出身)がステレオタイプに抱く、東京・下町の人情への偏見」に満ちすぎていること。
もちろん東野氏なりに、東京下町や人形町を対象に、取材や資料集めはしたのだろうけれども、江戸っ子の筆者に言わせれば、外国映画で出てくる日本のシーンで、日本人が丁髷を結ってるレベル。
うん、あざとい。

・東野文学は、伏線までもがあざとく分かりやすい。

だからこそ東野氏は、伏線を張らないで、謎の核をラストの推理シーンで、唐突に出してしまうのかもしれない。
それくらい、ちょっとでも推理小説を読み込んでいる者からすると、東野作品での「あ、これは事件の核心に関係する伏線だな」「あぁこれはミスリードだな、関係ないな」は、非常に区別しやすく、分かりやすい。
市川大河比で言うと、宮部みゆき作品の23倍くらい分かりやすい。
『放課後』の「リストバンド」などは、筆者自身が「そういう少女」達と付き合いがあったせいかもしれないが、にしても「あぁそんな何回も書いたら、さりげなくないっすよ東野先生」と、何度突っ込んだこと数知れず。

以上、簡単にボロクソ書いてしまったが、好きか嫌いかで言えば、上でも書いた「全ての核が『女性原理への敬意』で成り立っている」は、個人的には好感が持てて嫌いじゃない。
なるほど、80年代中期以降の、日本ミステリーニューウェーブにおいて、ポスト赤川次郎だった根拠は、その随所にはっきり現れている。

けど、筆者的には、常に新刊を読みたいと思わせてくれる作家であるとは言い難い。
なんていうか、上手くいえないけれども、ポスト赤川次郎なのはいいんだけど、その代わりにどっか秋元康とかつんく♪っぽい臭」がする気がする。
うーん「商売が上手いね」的な。
悪いことじゃないけど。

というような偏見と解析と見識をもって、今後当サイトでの東野圭吾作品の書評に挑んでみたい。

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