いかがだっただろうか?
安藤監督という人と成りが、単なる昔の思い出話だけではない、「今」を伺う価値ある存在であると、筆者は強く認識させられた。
インタビュー本文中ではあまり紹介できなかったが、安藤監督はこの時期、フィリピン鷲を絶滅から救う「タカを救う会インジャパン」や、そのフィリピンで、学校へ通えない子ども達に奨学金を与える制度の運動に身を費やし、そしてまた、安藤監督の縁の地である東京・梅島出身で世界へ羽ばたいた卓球選手だった、、関正子選手を称えて冠した「関正子小中学生卓球大会」の大会会長として、卓球大会では他に類をみない、独自のテーマ曲の作詞や音楽製作などで、精力的に活動されていた。
安藤監督とは、その後も僅かながらであったが交流を重ねさせて頂いたが、2013年の2月に、逝去された。
生前、安藤監督は、筆者を拒み、陥れようとする特撮界隈の一群の存在に気づいておられ、何度も「大河さん負けるな! 誰に袖にされたって、この僕がついているからさぁ!」と、真逆の立場で励まされたことも多く、その安藤監督の人徳は幅広く周知されており、今でもその死を惜しむ声はあちこちで後を絶たない。
生前の最期の方こそ、まるで遺書を遺すかのように、特撮ムックやイベントへの参加にも応じていたが、今にして思えば、最後の会話となった電話の時に「大河さんさぁ。僕ぁまたかなえたい夢をみつけちゃってね」と仰っていた。
「その夢」の中身がなんであり、どんな夢だったのかを、もう知るすべは我々にはない。
しかし、人間・安藤達己は、最後まで生き様をブレさせることはなかった。
『ウルトラセブン』という過去の栄光にしがみ付かずに、常に前へ前へと進み続け、日本やフィリピンの子ども達や、小さな命の動物の為に、最期まで奔走し続けた安藤達己監督。
それがきっと「ウルトラを送り出した大人」の今現在の姿としての、一つの回答なのだろう。
今もまだ、筆者の周囲を取り巻く環境は穏やかではないが、筆者は安藤監督から「生涯失うことのない、決して負けない、強い力」を、一つ頂いたつもりで今を生きている。
(2008年9月13日 割烹深水にて収録)