東野圭吾レビューに関しては、ぜひ『表層的東野圭吾論概略』もお読みください。

東野氏がデビュー作『放課後』ではまってしまった「殺人事件という、非日常的な出来事の発生に対して、登場人物がショックや後遺症を抱えて、そこで立ち止まるという『常識』を、馬鹿正直に踏まえて描写してしまうと、推理物としてのドラマはそこで停滞してしまう。事件はあくまで推理小説にとっては、展開の引き金に過ぎないのだから、事件発生後は、速やかに登場人物達はショックから立ち直らなければならない」という、古き良き時代の推理小説の、お約束の甘い罠に対して、氏が拮抗策として一時期追求していたのが、小説単位で、それぞれ独特の「狭い閉じた世界」を舞台にすることで、そこへ向き合う登場人物のストイックさをガジェットとして機能させ、殺人事件という非日常に、登場人物のメンタルが、引きずられない力学のあるドラマを展開する手法を編み出したのだ。

『放課後』のアーチェリー、『卒業』の剣道、そして本作のバレエ等々。

それが揺るがない「求道」であり、そこへ没頭する者達がストイックであればあるだけ、そこで起きてしまう殺人事件は、むしろドラマを躍進させこそすれ、停滞はさせない。
これは着想としても面白く、また東野氏はそこを巧みな筆力で表現した。

しかし、と筆者は思った。
その、初めて読んだはずの『眠りの森』の、構造や登場人物の相関図に、筆者はなぜか強い既視感を抱いたのだった。

いきなり話が飛ぶようで申し訳ないが、市川大河個人の推理小説購読歴を語る時、どうしても外せない要素に「ちぃちゃん症候群」というのがある。
多分おそらく、このネーミングだけでは、世界で誰一人として、その意味を理解できる人はいないと思うトラウマなのだが(笑)

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