『戦闘メカ ザブングル』と『未来少年コナン』

実は、富野監督は『ザブングル』という作品を総括したインタビューで、こんなことを述べていた。

そして、作品的に何をやるかとなると、「未来少年コナン」という作品をコピーするところから、練習を始めています。
だから、当然ながら、何をやっても、大塚(引用者註・康生)、宮崎(引用者註・駿)さんのようにうまくいくわけがありません。色々な所で指摘もされましたが上手にならないのに真似をするなんていうのは、要するにイミテーション以下だから止めた方がいい。

ラポート『富野語録』

富野監督は、アニメ監督としてはかなり自虐的な物言いをする人なので、一概に本人の言だからと鵜吞みにはできないが、さて、では、その、話に出てきた『未来少年コナン』(1979年)という作品は、はたしてどんな代物であったのだろうか。

代替テキスト

『未来少年コナン(以下・『コナン』)』は、まさに富野監督が『機動戦士ガンダム』を撮っていた1979年に、日本アニメーションで制作され、NHKで放映されていたアニメ作品であり、この作品で大塚康生氏はデザイン作業と作画を、宮崎駿氏は、デザイン、脚本、演出と、八面六臂の活躍で、今でもアニメファンの間では、伝説の名作と語り継がれている作品である。
原作は、Alexander Hill Key氏が1970年に執筆した『残された人びと』(原題: The Incredible Tide)という、東西冷戦の最終戦争が起きた20年後が舞台のSF小説。
アニメでは大きくイメージを変えられているが、その根底にあるのは、やはり東西冷戦が常に喚起し続けた「人類の歴史の行き止まり感」と「その先」観であり、ここで登場する主人公のコナン少年もまた、テレパシーを使える時点で、超能力者でもあると同時に、彼や幼いヒロインのラナなどが、意図的に作られた「人工次世代」だということが、全編のオチに繋がっていく。


しかし、むしろそういったミュータント的超能力と同等か、それ以上に少年・コナンの、肉体力、生命力、躍動感、パワフルさ、スタミナ等が所せましと大塚氏によって描かれ、それが冒険活劇にも繋がり、作品は魅力を発揮していくのではあるが。
物語構造自体は、一番最初の段で、『ナウシカ』の解説として書いた大枠が、『ザブングル』と同じく、そのままここでも「なんどめだなうしか」になっている(だから『ザブングル』は『コナン』をコピーした作品と言われているのだ)。

代替テキスト

逆を言えば、そもそもの「アニメの主人公」というのは、元からしてこの程度には頑丈で、崖から落ちた程度では死ななくて、驚異的な身体能力を見せるのが普通であったのだが、大塚・宮崎コンビはあえてそこで「驚異的なスタミナを持つ少年主人公」に、社会派SFメッセージ的な色付けを加えたのだ。
それこそが「人間はそもそもの、動物としての身体能力を目覚めさせるところに戻らないと、約束された“崩壊の日”の、先を生き残ることも出来ない。最後に生き残る決め手になるのは“生命力”なのだ。そして、“それ”を描ける最適なメディアこそが、白い紙に線と色で画を描く“アニメ”なのだ」という、強い主張だった。
それは、富野監督も、前述の『ザブングル』に関するインタビューで、続けてこう語っている。

コナンならコナンで、描きたかったであろう「人体のスタミナ論」みたいなものをね、とにかくアニメの上で具体的に描くことが出来ないか? それを試すっていう目的がありました。

ラポート『富野語録』

つまり、先ほど『風の谷のナウシカ』のガイドラインとして書いてみせた枠筋は、実は『コナン』にその発祥を観ることが出来、実は宮崎駿氏が、アニメではなく漫画で描いた『ナウシカ』は、実像はかなり『コナン』に近かったのである。だからこそ、そもそも『コナン』ありきの『ザブングル』とは、似てくるのは当たり前なのである(余談だが、富野監督は『ザブングル』に関して「目指していたのは、実は活劇ではなかった」とも応え、「最低限の鍵が“たとえコナンのコピーとののしられてもかまうものか!”とやった活劇の部分で、実はそれが一番正しかった」とも述べている)。
かように、「閉塞していく未来を救うのは、原始的な人間という生物の持つ肉体的ポテンシャルなんだ」という信心は、ある種『北斗の拳』的なマッチョイムズと混同されやすいかもしれないが、もう少しそこには、ヤンキー的思考ではなく、インテリジェンスの悲痛な願望的な裏付けと共に、この時期トレンドなテーマであったことは事実であろう。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事