『風の谷のナウシカ』と『戦闘メカ ザブングル』

『ナウシカ』原作版は、これも読んでいる方は多いだろうから詳細は省くが、アニメ版とは意図的に価値観がずらされていて、主にナウシカやそこに生きる人々が、「火の七日間」を境に、実は読み手の我々側ではなかった、遺伝子操作による人工ミュータントだったという設定が明かされる。

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つまり、「近未来。地球は一度最終戦争に陥ってしまい、結果的に人類は絶滅寸前になり、地上は生きることも難しい世界に変わり果ててしまった。そこで“地上で生きるために”生み出された人工人類。ミュータントが主人公。この主人公はミュータントといえど、それまでの未来SFに搭乗した“冷たい”存在とは違い、むしろ人間性の発露。人間の、本来の“生きるバイタリティ”をそのままに復元した形で、躍動感と喜怒哀楽、生命感に溢れた人物像として活躍していく。その主人公の周りにも、ミュータント的なる存在達は多く描かれ、むしろそこで描かれる“敵”こそが、人を滅ぼすきっかけとなった旧人類の執着とエゴの残した遺産のような存在でもあり、主人公は様々な冒険を経て、世界を滅ぼすに至った旧体制的な思考に取りつかれてしまった亡霊のような旧人類の残党(我々現代人の末路)を相手に、勇気と活力と体力と生命力で“本当の人間とは、そもそもどのように生きるべきであったのか”を体現しながら、旧人類が滅ぼした世界で生きれるがゆえのミュータントでありながら、ミュータントの存在そのものが、本質的な人間論、人類賛歌となり替わっていく。つまり、作品全体が、現状(当時)の人類社会の在り方を否定して、ネクストワールドに生まれるだろう人類こそが、本質的な“人間”なのだろう、そうあるべきだというメッセージを中核にして描かれている」ということになる。

はたして“これ”がどの程度、80年代のSFシーンにおいて「ありきたりな着想」だったのかは分からない。
「最終戦争の後の、荒廃した未来の世界観」から始まるで言えば、『猿の惑星』(原題: PLANET OF THE APES 1968年)『マッドマックス』(原題: Mad Max1979年)も『北斗の拳』も一括りで、決して軽々とまとめてしまっては散漫な論になってしまうだろうからだ。

しかし、その一方で、筆者のこれまでの書評やコラムを読んでくださって来た皆様には「またか」と言われるかもしれないが、今、上で書いた大枠が、すっぽりそのまま当てはまる作品が他にもあるのである。
それは、既に紹介した『機動戦士ガンダム』の富野由悠季監督による『戦闘メカ ザブングル(以下『ザブングル』)』(1982年)というアニメである。

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このアニメは、あくまでコメディドタバタロボットアニメの体裁を取り繕いながらも、根底に流れている設定は悲惨だ。「“惑星ゾラ”と呼ばれている“地球”」というオープニングナレーションから始まり、ロケーションと背景はどうみても西部劇なのだが、そこにウォーカーマシンと呼ばれる、土木作業機械のようなロボットや、戦艦のような地上用移動母艦が登場し、主人公が乗るウォーカーマシン・ザブングルに至っては、さしずめ青く塗ったガンダムのように、ヒーロー兵器っぽい。
そこでは、富野監督の「いつもの」エピソードが存在しているのだが。
当初、このアニメの企画をした日本サンライズ(当時)は、『エクスプロイター』という、宇宙戦争ロボットアニメの設定骨子を考えていた。そこでの要素のいくつかは、後の同社制作アニメ『銀河漂流バイファム』(1983年)に活かされるのだが、当初の総監督が都合で退き、劇場版『伝説巨神イデオン』(1982年)の製作で忙しい富野監督に無理矢理総監督のバトンが委ねられ、様々な会社事情やスタジオの熟練度、今現在自分に任されている仕事量とのバランスを考えた富野監督が、ホテルにこもりきりで三日で全ての設定をひっくり返して考えたのが、『ザブングル』の世界観と設定だった。

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「惑星、ゾラと呼ばれてる地球。大地は全て荒廃し、惑星全土が西部開拓時代のアメリカのような星の上で、インテリジェンスは低いが、体力と生命力には溢れている人々、シビリアンと、それを管理する、ドームの中の支配者・イノセントによって、二階層で構築されている社会の中で、守らねばならない掟はたった一つ。殺人でも強盗でも、三日逃げ切れば罪を問われないという『三日の掟』。しかし、そこに一人の少年が登場する。三日以上前に両親を殺された恨みを晴らせずに、まだ仇を追い続けている主人公・ジロン。ジロンは両親の仇を追いかけながら、ザブングルを手に入れ、周囲を巻き込み振り回し、やがては世界構造の中枢、イノセントの存在の鍵にまでたどり着く。ゾラは元々地球であり、核戦争によって放射能に汚染された結果、人が大地に住めなくなり、ドームの中に引きこもるしかなくなり、しかしなんとか、そんな世界でも生き延びれる新人類を作ろうと、実験の結果生み出されたのが、ジロン達シビリアンであった」という展開。

今回は、「なんどめだなうしか」とツッコミが入りそうなのでコピペの繰り返しはしないが、ここまでお読みいただいた時点で、『ナウシカ』と『ザブングル』が、ほぼ同じ構造の「人類再生・人間バイタリティ賛歌」を描いていることが分かる。
では、この場合どちらからが、どちらかを真似したのかと言われると答えづらいのではあるが、では全くの無関係で、『ナウシカ』と『ザブングル』が相似形になったのかと言われると、決してそうでもない辺りがめんどくさいのだ(笑)

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確かに、富野監督は宮崎駿監督作品を意識して『ザブングル』を生み出した。
しかし、『戦闘メカ ザブングル』の放映は1982年であり、『風の谷のナウシカ』が連載され始めた年である。
いくら富野監督といえど、連載が始まったばかりの漫画の、10年先のオチや裏設定まで先読みが出来ていたわけではなく(漫画版『ナウシカ』が完結するのは1994年)、だからといって、宮崎監督からこっそり、予め裏設定を窺い知っていたとかの、裏があるわけではない(というか、お二人の関係性や性格を少しでも知っているアニメファンや業界関係者であれば「それだけは絶対にない」と言い切れる(笑))。

では。
絶対的に、『ナウシカ』と『ザブングル』の一致が奇跡的に偶然だったかと問われれば、決してそんなことはないのである。

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