金城哲夫氏は、自身がメインライターを勤めた『ウルトラマン』(1966年)において、共同執筆を含めると、実に14本の脚本を手がけている。

『ウルトラマン』期の金城哲夫論に関しては、70年代から、プロ評論家やアマチュアファンジン等、各所で評論が展開されていて、語りつくされている感は否めないが、基本的にその論調の多くの視点が「メインライターとして各作家を統括して、様々な作家の作風を受け止めながら、作品の基本世界観を守り、決して個人の作劇に閉じこもることなく、直球作品を送り続けた」という、表層的な金城論に終始してしまっている部分が多い。

無論筆者とて、その論調に異論があるわけもなく、むしろ実相寺昭雄監督・佐々木守脚本作品などを論じるときには、対比としてメインライター・金城哲夫氏の作品を持ち出さないと、論の軸がぶれてしまうということもあってか、古くからのファンの間における金城氏の、メインライターとしての印象は「真面目で直球勝負の優等生」であったことは確かである。

しかし、そういった「真面目で優等生」的な印象をもたれながら、一方で豪放磊落で社交的と言われた金城氏ではあるのだが、その内側で、繊細で傷つきやすく、また脆く弱いメンタリズムが内包されていたことは、筆者が金城作品群、そういった視点を得て金城哲夫作品を読み解いていくと、決してそれは「悪い怪獣をウルトラマンが、シュワッチと倒す痛快娯楽」というフォーマットで構成されている『ウルトラマン』においては、決して直球でも優等生でもない作品ばかりであることに、気づかされるのである。

金城作品の核。

そこにあるのは、実は調和と未来への限りない信頼でもなく、正義と平和を守ることへの意義と主張でもなく、実は「巨大な生き物と個人の、閉じた関係性」であった。

ウルトラマンは、その視点が俯瞰であり、また作品世界が持つテーマ性も大きいため、ともすれば「人類社会と怪獣」というカテゴリで構造が描かれることが多い。

しかし、後年分析されたように「怪獣とは常識が支配する社会からパージされた、全ての『怪獣的なる者』の象徴である」をここに当てはめるのであれば、金城作品には常に、その「怪獣的なる者」と固有に結びつく人間が、必ず作品内のどこかに居て、その人間と「怪獣的なる者」の関係は、周囲からは隔絶された「閉じた関係」として成立して描かれていた。

『ウルトラQ』(1966年)『五郎とゴロー』は、文字通り怪獣となってしまった猿と、猿とだけ繋がる聾唖者の五郎との絆を描き、そしてその「閉じた関係」が物語を導き続けた作劇だった。

『ウルトラQ』ではその他でも、『マンモスフラワー』において、社会全てが敵視するべき吸血巨大植物に対して、一人、固有の価値観で撲滅に意義を唱えた源田博士の存在が軸になっていたし、『SOS富士山』の岩怪獣とタケル、『甘い蜜の恐怖』の巨大モグラと伊丹、『クモ男爵』における蜘蛛男爵とタランチュラなどなど、金城作品はそこで常に「常識の一般社会の住人達には介入できない、社会からパージされた、一個の個人と怪獣との閉じた関係」を発信し続けた。

それは例えば『1/8計画』では「怪獣的なる者」になってしまった由利子の心理を、細かく描き出すことで、筆者たち一般社会の善良な市民とて、いついかなる展開次第では、ほんの些細な「踏み外し」が原因で「怪獣的なる者」になりかねないのだと、それをはっきり視聴者に突きつける作劇を見せている。

(例えば、同じように普通の人間がアンバランスゾーンで突如怪獣化してしまうという、同じ構造をもった『ウルトラQ』の作品に『変身』(脚本・北沢杏子)があるが、そこでは巨大化してしまった青年ではなく、その事実を突きつけられる恋人の女性を主軸にドラマが展開しており、「怪獣的なる者」に変身してしまった青年の心情は全く描かれていない)

金城作品はいつだって、怪獣の声なき声を受け止める一個人を、そこに登場させることで、その個人を依り代として、その声なき声をテレビの前の視聴者に届け続けていた。

それはどこか悲痛で、どこか必死な、まるで無人島から流された、小瓶の中に書き記された宛名のない手紙のように、途方もない孤独の中から生まれた、絶望の叫びのようなものであった。

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