閑話休題。
赤塚氏の漫画というと、もちろんそこでは『天才バカボン』をはじめ、『レッツラゴン!』『おそ松くん』など、数々のギャグ漫画が金字塔として漫画史に燦然と輝いていて、その輝きは未来永劫曇ることはないだろう。
漫画をメタファーに解体して、様々な実験を行いつつ、タモリ氏などのタレントの発掘や、その人生の毀誉褒貶ぶりもあわせれば、まさにそれは、漫画家などという職業を超えて、松田優作石橋凌が語り合った「表現者」の域に達していたといえる。

けど、自分は実は赤塚氏の漫画に関しては、ギャグ漫画よりも、さらにさかのぼった時代に描かれた、下町人情漫画の方に、心を強く惹かれるのである。
赤塚氏の人間観察眼と、時代のリアリズムを見事に取り込んだ『キビママちゃん』『ひみつのアッコちゃん』(共に1965年)。人と時代と社会と笑いが、見事に一体化して表現されていた『まりっぺ先生』(1959年)などと共に、筆者自身が大好きな、こうの史代女史の『夕凪の街 桜の国』(2004年)を思わせる、反戦と戦後、原爆被害と男女の淡い恋を描いた、赤塚漫画の隠れた大名作『九平とねえちゃん』(1966年)は、今でも忘れられない感動の傑作漫画であった。

例えば、ピカソの絵画を見て「子どもの落書きみたいだ」と感じる人は多い。
「こんなのが数億円もするなら、自分でも描けそうだ」と思ってしまえる人もいる。
しかし、ピカソの習作時代のデッサン画の数々をみれば、彼がまず、基本的な技術論を突き詰めた先に、独自の技法を編み出し、それを磨き上げた事実がわかるはずだ。
どんな天才もまずは素材であり、それは基本を磨かなければ、万人へ繋がる作品を、独自の手法で生み出せるものではない。

赤ん坊の殴り書きに見えたピカソが、実は写実性の高いデッサンを、突き詰めるレベルまで磨き上げていたのと同じように、アバンギャルドでアナーキーな赤塚ギャグ漫画は、その前段階において、人間の心と社会の繋がりや、その生活環境としての背景、人が生活している中で振舞うちょっとした仕草や動きを、緻密に描きこむことを繰り返した先で、初めて結実した表現だったのである。

それは、どんな芸術やスポーツでも変わらない真理であり、また、その「個性を磨く前に、まず基本と礎をしっかり築こう」は、人の人生でもまた、変わらない真理なんじゃないだろうか。

赤塚氏が亡くなった時、フジテレビ系列で赤塚不二夫氏の追悼番組が放映された。
内容としては、古参オタクの一人としては概ね知っているエピソードで構成されていたが、その中で、生前赤塚氏がこのようなことを言っていたと明かされた。

「良い映画を観なさい、良い芝居を観なさい、常に一流の作品に触れていれば、一流の漫画が描けるようになるんだよ」

赤塚不二夫・談

どこかで聞いた台詞だ。一瞬で筆者はピンときた。
そう、その台詞こそ、若い頃に『機動戦士ガンダム』(1979年)富野由悠季監督が語っていた台詞、そのままだったのである。
富野監督はガンダムブームの頃、人生相談のような場で少年の「どうしたらアニメの監督になれますか?」という質問に対し、こう答えた。

「まず大学へ進んでください、そこで基礎や常識をしっかり学んでください。
そして、アニメ以外の文化にたくさん触れてください。
世界には、一流の映画や一流の演劇、一流の音楽や小説がいくらでもあります。
それらに触れてください。そして恋をしてください、旅をしてください。
それらを終えてもまだアニメを作りたかったら、是非この業界に来てください」

富野由悠季・談

うろ覚えなので細かい間違いはあるかもしれないが、大意はこのままである。
このシンクロニティはなぜ起こったのか? 富野監督が赤塚氏を、赤塚氏が富野監督をぱくったとは思いがたい。
ほどなくしてすんなり回答を得ることが出来た。
それは、手塚治虫氏の教えだったのである。
赤塚不二夫に思いいれがある人で、赤塚氏と手塚氏の関係を知らぬ者はいないだろう。
そして富野監督は、創世記の虫プロのメンバーであり『鉄腕アトム』のメイン演出家だった。
だとすれば、その価値観は同じように手塚氏から弟子にあたるクリエイター達に、いつも語られていた「一流の作家になるために必要なこと」だったのだろう。
自分は富野監督にも、赤塚氏にも心酔していたので、その「実は二人は同じ価値観を共有していた」は、とても嬉しい事実であったし、その赤塚氏の言葉を、改めて遺言として受け止めたいとも強く思った。

今の若い人には、赤塚氏はきっと「酒ばっか飲んでるだけの、過去の作品に頼ってるだけの、古い芸人みたいな気質の人」ぐらいにしか、思われてなかったのかもしれないが、せめてこの機会に、『おそ松さん』(2015年)なるアニメを通してでもいいので、赤塚氏の珠玉の人間漫画が、再評価されたらなと、願わずにはいられないのである

赤塚不二夫、偉大なる表現者
2008年8月2日
肺炎のため逝去。
享年72歳。
トキワ荘の、あの窓からの日差しを記憶する人は、もう残り少なくなってしまった。

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