“あの、当代きってのベストセラー作家”が“テレビアニメ版『鬼太郎』の脚本”を書く!
小説家の京極氏に、アニメの脚本を任せても大丈夫なのか? その破天荒な企画には、当初内外でも不安の声は上がったという。下手すればベストセラー作家の名に泥を塗る行為になる恐れもある。しかし一方では、確かに小説家と脚本家を兼ねる作家は少なくない。それに、映像、特にアニメは、決して脚本だけで出来上がるものではなく、演出や絵やデザイン、音響効果や声優の演技など、最終的には様々な要素が絡み合って完成するのだ。大作家先生から脚本だけいただければ、後はアニメスタッフが一丸となって“それ”を脚本に恥じない作品に仕上げればいい!
かくして、1996年開始『ゲゲゲの鬼太郎』第4シリーズ第101話 京極夏彦脚本『言霊使いの罠!』は製作が決定した。
これをして京極氏は「今までは『推薦文もらったファンはいるまい』というのが自慢だったんですが、これからは『脚本書いたマニアもいるまい』ですね」と、『水木しげるVS京極夏彦 ゲゲゲの鬼太郎 解体新書』で語っている。

この、講談社『解体新書』シリーズは、90年代序盤から中盤にかけて、主に講談社漫画原作からの東映動画アニメ化作品について、漫画原作とアニメの両面から、評論や解析等を徹底的に行うことで有名だったオタクマニア向け解析本のシリーズで、当然それまでは『デビルマン』『マジンガーZ』等が筆頭であったのだが、今回は『ゲゲゲの鬼太郎』の出番になった。
『解体新書』シリーズのいつもの流れであれば、歴代のアニメ版のスタッフや設定、実際に放映されたエピソード等を1話単位で解析しつつ、原作漫画の流れにも触れ、完璧な資料性を発揮するところなのだが。今回の『ゲゲゲの鬼太郎(以下・『鬼太郎』)』版の場合、確かに1968年開始の第1シリーズや原作漫画から資料や設定、歴史などを持ってきているものの、それは全150ページの後半50ページに過ぎず、なんと前半2/3に当たる100ページは、タイトルに『水木しげるVS京極夏彦』と謳っているように、第4シリーズ、それも『言霊使いの罠!』だけをフィーチャリングして、水木×京極対談だけで20ページ、本話のメイキングだけで20ページ、おまけに本話の絵コンテなんかも全部載せてしまうものだから、もうまるまる一冊『言霊使いの罠!』本と言っても過言ではない仕上がりになっているのだ!
その中の対談では、『鬼太郎』脚本を書くことになったことへの想いに触れて京極氏が

京極 僕は鬼太郎作品は、もうつぶさに読んでます。雑誌から単行本から、暗記するほど読んでいる。どのコマがどこでヴァージョン違いになったかわかる(笑) だから原作は熟知している。のみならず、過去3回のアニメも全部見ているんです。

『水木しげるVS京極夏彦 ゲゲゲの鬼太郎 解体新書』 対談より

等と、かなりストーカーレベルの発言を繰り出してくる。初手からこれである。
筆者もそれなりに、水木御大と鬼太郎に対してはマニアではあるが、さすがにDVDは第2シリーズまでしかボックスは持っていないし、水木御大の膨大な仕事量の把握など、想像するだけで気が遠くなってしまう。
それを誇れる男・京極夏彦氏。
京極氏は、元デザイナーだけあってか、自著を出す時も、装丁だけではなく、段組や割り付けまでをも逆算して、同じ小説でも出版のフォーマットが変わるたびに、合わせて文章を書き直すほどの拘りをもつ、良い意味での、マニアの中のマニアだ。例えるなら、80年代のクレージーキャッツ再評価時代における大瀧詠一氏のようなスタンスの大物だ(分かりにくい例えであったら申し訳ない)。
それだけに、上記した言葉からだけでも、並大抵の脚本を用意しないことは予想が出来る。
大事態だ。この時点で30周年を迎えようかとしていたアニメ版『鬼太郎』にとって大事態だ。
「鬼太郎アニメに、京極氏を招き入れる」
この、出落ちか、無理ゲーにしか思えないミッションに対してのスタッフの反応も、やはりこの本に書かれているのだが、やはりというか、そりゃそうだというか、この企画には個々に動揺が隠せなかったようだ。

今回京極先生の脚本を拝読して、「しまった! これは僕らがやらなきゃいけない話だった!」とショックを受けたんです。妖怪とは何か。鬼太郎とは何か……それらが全て盛り込まれている。で、ここはぜひアンサーをしなきゃいけない――と、清水プロデューサーにも言われて。(シリーズディレクター 西尾大介氏)

まぁ、そもそも京極さんの脚本は、文章としてすごく完成してるんで、逆にこちらは行間を読んでコンテにふくらますということができない。というより、すべて書き込まれているんで、追いつくのが精一杯で……。
(中略)
できた作品が、京極ファンの皆さんにどう受けとめてもらえるのかが楽しみであり、不安でもあります。「こんなのは京極さんの世界じゃない」と言われるんじゃないかとかね。(第101話担当演出 角銅博之氏)

『水木しげるVS京極夏彦 ゲゲゲの鬼太郎 解体新書』より

もはやすでに、これら西尾氏や角銅氏のコメントは「『鬼太郎』スタッフのコメント」ではない。「京極夏彦原作アニメのスタッフのコメント」にしかなっていないのではないかという(笑)
たしかに、時流に乗った最上級ベストセラー作家が、日曜朝の子どもテレビ漫画のシナリオを書くというのは、テレビアニメ半世紀の歴史でもなかなかないことであり(テレビアニメ脚本から、著名な小説家になった人は大勢いる)、これは東映アニメーション的にも、緊急事態的な状況であったことが容易に理解できる。
しかし、問題は「それだけでは終わらなかった」ということである。

考えてもみよう。
京極氏は、社会的には東野圭吾氏や宮部みゆき氏にも負けない売れっ子小説家ではあるが、こと鬼太郎の世界(?)においては、ただの「ストーカーレベルのオタク好事家マニア」でしかないのだ。
センセーは小説家ですから、脚本だけお書きくださいとしれっと言われて、ハイそうですか。では書きましたので、これをお使いくださいなどと、そんな話では終わらないのだ。終わるはずがないのだ!
この京極夏彦脚本作品は、タイトルを『言霊使いの罠!』となっているが、仮に小説家や脚本家、つまり文章書きを「言霊使い」と称するのであれば、その「言霊使い(京極夏彦)の罠!」は“ここ”からはじまったのだ!

なんと、まずは、『鬼太郎』といえば毎回登場する敵役妖怪が華だが、この話では敵妖怪はあくまで刺身のつまで、鬼太郎と戦うのは「一刻堂」と称する一人の言霊使いの拝み屋の青年。
ところが、その容姿、その言葉遣い、その手法、どれをとっても、京極氏のベストセラーシリーズ『京極堂シリーズ』の主人公・京極堂そのまんまなのだ!

京極 そこでですね、まあ僕も物書きなんで、僕の作品をサカナにしようかと思ったんですね。¥

『水木しげるVS京極夏彦 ゲゲゲの鬼太郎 解体新書』 対談より

いやいや、確かに京極氏はその言葉の後でこうフォローを入れることを忘れない。

京極 誤解のないようにいっておきますが、一刻堂というキャラクターは京極堂じゃないんです。ちょっと似てますが(笑)
(中略)
京極 だからあれは別物だと思ってもらいたい。

『水木しげるVS京極夏彦 ゲゲゲの鬼太郎 解体新書』 対談より

いやいやいや!
いきなり、誰にも聞かれてないのに別人説を自分から言い出すとか、それ、小学生が親のいない間に冷蔵庫のプリンを食べちゃったときの言い訳みたいなもんですよ、京極先生!(笑)

しかも。しかも、である。
元々からしてアートディレクターだった京極氏だけに、脚本だけでは一刻堂のイメージが伝わらないと思ったからなのか、この『鬼太郎』第4シリーズのキャラクターデザイナーは、『キューティーハニー』(1973年)『ベルサイユのばら』(1979年)経由『聖闘士星矢』(1986年)行きエクスプレスの、荒木伸吾姫野美智両氏コンビなのに、「せっかくだから」的な“なにか”で、自らの筆で、メインゲストの一刻堂のキャラクターデザインを、持ち込んじゃいましたよ、京極先生!
これには、さすがの荒木総作監も「手をくわえる必要はほとんどなかった」としかコメントのしようがない!

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