あの頃、80年代。恋愛は、仲間は、友達は、決して「漫画の中でしか描かれない嘘」ではなかった。
運命と死闘の末につかみ取るほどクソ真面目には生きていなかった僕たちだったかもしれないけれど、『風呂上がりの夜空に』で、ヒロインもえが、土手で見つめて「この景色を永遠に残しておきたい」と語った夕日や、『湘南爆走族』の、卒業式の後の教室、『究極超人あ~る』での、夏休みのグラウンドの、誰が何をしてもいい雰囲気の、無駄な使い道など、等身大の葛藤や共有できる景色が、それらの漫画の中には描かれていた。
いつからか。
そういった「漫画ならではの非日常性」と「その基礎を構築するリアリズムと普遍性」のバランスを崩した、「歪な、嘘と偽りだけの化け物としか言えない“キャラクター女子”だけが、物語性も劇的性もないダラダラを、共感もシンクロもないまま読まされる」『日常系』が闊歩し始めた時、「僕たちの80年代の思春期」が、生の10代少年少女にとって、意味も体温もない、感じられない「嘘くせぇ出来事」になっていってしまったのか。それとも“ぼっち”“非リア充”をキャッチフレーズにする読者層が、今や大政翼賛会的に漫画文化市場を占めていて、そういった「非日常系設定を持ちつつ、リアルを楽しめている思春期読者にも共感してもらえる青春漫画」には需要がなくなってしまったのか、分からなくなっていった。
敬愛する狩撫麻礼氏は『ボーダー 迷走王(1986年~1989年)』の中で「最後の武器“漫画”までもが、マーケティングと市場主義の“あちら側”のものになってしまった」という旨の発言を主人公にさせているが、その“あちら側”は、目の前のセックス的快楽と銭にしか興味がない、腐った民意社会のことを刺していたのが『ボーダー 迷走王』の80年代なのだが、状況はさらに悪化し、「一般社会や普通の恋愛や“普通の高校生活”にさえ、目を背け、ご都合主義の、“萌え”と、妖怪のような二次元女子モドキの化け物しか存在しない市場」を生み出し、タコが自分の足を喰らうような市場に陥っている。
それは、イマドキのJ-POPの需要にも言えて、「ボクが アタシが、願ってることを、代わりに実現したり、代弁してくれれば、自分が酔いしれられる」という、極めて上から目線の「お客様カミサマ理論」で、それらサブカルチャーの市場が構築されつつあるのは事実なのだよね。
そこから比べれば、ある意味で向き合いたくないとさえ思う時だってあるはずの「リアルで生々しい、恋愛と思春期」を、真正面から描こうとしようとしていた、そういった志が才能を求めていた「あの頃の漫画市場」の方が、まだまだマシであったと、心底思うのだ。
ただの老人の「昔はよかった」ではないが、それでも、二次元と「虚構の中の虚像」に騙されず、自分の日常と漫画の世界を、拮抗させられる思春期を、あの時代におくれたということは、今でも人生の誇りであったりはするのだよねという。
まぁその結果、今の僕はそれこそ狩撫麻礼氏の『ボーダー 迷走王』の主人公・蜂須賀のような、貧乏と孤独な中年なわけだが(笑)