典型的な凡人ワトソン役の田口は、キャラとしての汎用性も高いので(一応断っておくが、原作小説の田口は決してただの凡人ではない)画的に華が欲しければヒロイン(映画版・竹内結子)へ、ホームドラマ的要素が欲しければ若者(ドラマ版・伊藤淳史)へと、自在に変更できる。
白鳥の方は、作劇のプロが「扱いやすさ」と「田口(一般人)とのコントラスト」を狙いながら、小説の設定をベースに、普遍的ありがちなキャラへと変更を加えれば、劇場版(阿部寛)とテレビ版(仲村トオル)と、大きな差は逆に出ない。
以上が「二つの映像化作品において、白鳥像が(小説版とは全く別の方向で)一致した理由」である。

以前インタビューさせていただいた『コメットさん(1967年)』『俺はあばれはっちゃく(1979年)』で監督を務めた山際永三氏が、しきりに筆者に仰っていたのが「ドラマを作るということは、そこに狂気を込めるという作業であり、狂気を秘め、抱いていない者は作家にはなれないのだ」であった。
そういう意味では、白鳥や速水、氷室といったキャラからは、海堂氏ならではの「必死に搾り出した狂気」が感じられるのではあるが、それは決して「自然に滲み出てきた狂気」とは程遠く、作り物感が拭えなかった。
それでもなお、海堂氏の「狂気を持っていない常識人」っぷりは『イノセント・ゲリラの祝祭』などにおける「会議論戦バトル」の面白さへと、むしろ繋がっていくのである。

初作『チーム・バチスタの栄光』に限って言うならば、本格ミステリーとしての、フーダニット・ハウダニットの構築や、キャラの数、描き分け、立ち位置の割り振りなど、それらは非常に高いバランスで成り立っていたことは異論がない。
海堂氏が、子どもの玩具のように振り回して翳してみせた「白鳥のロジカルモンスターぶり」も、既に解説したように、目立って新しい要素ではないものの、上手く物語前半・後半の変化を機能させている。
その上で、田口でも白鳥でもない「Aiという名探偵」のもたらすセンスオブワンダーもお見事で、初作は、パッシブ・フェーズだのの心理学用語に拘りさえしなければ、文句の付け所のない、隙も無駄もない完璧さを誇っている。

だからこそ「作家の本質が問われる二作目」『ナイチンゲールの沈黙』での、それら「本格推理小説的素養」の凋落っぷりは、落胆を誘ったのである。

次回「『ナイチンゲールの沈黙』は、果たして駄作だったのか?」

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